ふじ枝の大正琴(09)

令和01年03月21日

 四十分は長い…が、演習が終わって、もうすぐ九時になろうというのに、山内達也は不思議な高揚感を持て余していた。

「とにかく、振り返りの時間でも言ったように、稲本先生のインタビューは驚くほど短く感じられたんだよ」

 山内は真っすぐアパートに帰る気にならず、同じグループで観察者だった尾関まどかを喫茶店に誘い、コーヒーを挟んで向かい合った。

「聴かれているのは僕の個人史だから、決して愉快な話題ばかりじゃないんだけど、稲本先生に質問されると、聴かれた事柄が頭の中でしきりと言葉になりたがるんだよ」

「聴かれた事柄が言葉になりたがる…。体験した者にしか言えない実感よね」

「僕の話に反応しながら、内容と関連したことを聴かれるから答えるのに抵抗がない…と言うより、抵抗を乗り越えたくなると言った方が正確かな?警戒心や羞恥心といった、プライベートを閉ざしている心の扉が次々と開いて行く感覚なんだ」

「インタビューの流れがそうさせるのね」

「繰り出される質問がこちらの感情の流れに沿っているから、聴かれたことに答えていると言うよりは、先生と一緒に自分の人生に分け入って行くような感じがするんだよ」

「私、振り返りのときは言わなかったけど、山内くんが最初の就職先を辞めた話題になったとき、先生は辞めた理由を聴かなかったわよね」

「そうそう、職場を辞めることを両親のどちらに先に相談しましたかと質問されたんだよね」

「それで一気に山内くんの家族に踏み込んだ」

「父親はいないので…と言葉をにごす僕を、いないと言いますと?…と言って、覗き込む先生の目から、何とも言えない誠意が伝わって来るものだから、両親は別れました、いわゆる熟年離婚ですと、自分でも驚くほど自然に答えていた」

「あの瞬間に山内くんと先生の距離がぐっと近くなったように感じたわ」

「しばらく沈黙したあとで、思春期の多感な時期に随分つらい思いをしたのですね…と先生からしみじみそう言われて、当時のことが生々しく思い出されちゃった」

「それからひとしきり、中学二年生から始まった山内くんの反抗期がご両親の不和に影響していたのではないかという話が続いたわよね」

「気が付くと、よほど親しい人にしか打ち明けないようなことまで話していたし、話しながら両親に対する感情や当時の自分の反抗の理由が不思議なほど整理されていた」

「聴かれる側にそんな変化が起きるから、プロのインタビューはすごいと思う。私も総合病院の相談員として、随分たくさんの患者さんやご家族の話を聴くけれど、失礼のないように項目に沿って情報を取るのが精いっぱいで、稲本先生のように相手の事情に立ち入って行く聴き方はとてもできないわ」

「僕だって先生のインタビューを経験してみると、自分が包括の社会福祉士として利用者の話をきちんと聴けているとは思えない」

「人の話を聴くのはプロの技術なのね」

「ああ、相談業務を仕事にしている以上、僕たちにも人の事情に立ち入る技術を磨く責任がある」

 若いウェイトレスがあと十分で閉店ですと告げに来た。

 店を出たとたん、山内の脳裏に柴田里美の顔が浮かんだ。里美は吉田ふじ枝という認知症の女性と関係が作れないで困っている。稲本正和なら、認知症の吉田ふじ枝とどんなふうに関係を築くのだろう。里美を稲本に会わせてみたい…。バスを待ちながら山内は唐突にそんな計画を思いついた。

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