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ふじ枝の大正琴(10)
令和01年03月24日
山内から詳細を聞かなくても、柴田里美は既に稲本正和のことを知っていた。
「認知症に関する稲本さんの講義を二度ほど受けたことがありますし、何年前だったか、『集いの家』にも見学に行ってお話しを伺ったことがあります」
仰々しい看板を掲げることもなく、住宅街にひっそりと溶け込んだ民家を訪ねたときのことを、里美は懐かしく思い出した。
チャイムを鳴らすと、玄関に迎えに出た高齢の女性が応接間に案内してくれて、
「手盆で失礼します」
にこやかにお茶を運んでくれた。
入れ替わりに現れた稲本は、
「彼女は八十四歳ですが、接客がお上手なんですよ」
まだ廊下にいるその女性に聞こえるように言った。
「お茶を淹れたのは別の利用者さんです。料理も、掃除も、ゴミ出しも、できる範囲で利用者さんに手伝ってもらっています。そこのお花も利用者さんが活けてくれたんですよ」
稲本が指差した床の間には、鮮やかなツバキの一輪挿しが活けてあった。
案内されたデイルームは、いく部屋かの壁を取り払った広々とした空間で、十人掛けの円形テーブルが二つと、大型テレビの前に薄いオレンジ色の布張りのソファーがコの字形に置かれていた。
ガラス障子の外に視線を転ずると、灯篭や庭石を配した中庭に、ツバキや八つ手や青木の緑が目に優しかった。餌でも撒いてあるのだろうか、舞い降りた数羽のスズメが、踏み石から踏み石に跳び移りながら、盛んに地面をついばんでいた。その様子を縁側から目を細めて眺めている人、拡大鏡を手に新聞を読んでいる人、洗濯物をたたむ人、昼食で使った食器を洗うのを手伝う人…。思い思いに過ごす十人ほどの利用者の中に、ぼんやりしている人を見つけると、職員がさりげなく近づいて、おしゃべりをしたり、歌に誘ったりしていた。
里美には、利用者に強制するプログラムのない、ゆったりとした雰囲気が新鮮だった。ここでは利用者自身がそれぞれ自分にできる役割を見つけては取り組んでいる。
里美にはそのときに見た忘れられない光景がある。
洗い終わった食器をお盆に乗せて職員がテーブルに運んで行くと、受け取った男性がそれを丹念に布巾で拭いてはカゴに伏せていた…と、テレビに飽きた女性がソファーから立ち上がった。視線は男性が拭く食器に注がれている。すると、職員の一人がすかさず近寄って、
「静子さん、手伝ってもらいたいことがあるのですが、いいですか?」
と顔を覗き込むようにして、やさしく言った。
「静子さんは文字を読むのが誰よりも早いでしょ?畳んだ洗濯物を名前別に分けて頂きたいんですよ」
文字を読むのが早いと言われて悪い気のしない静子は、職員に促されるまま、得意げに洗濯物の場所へ移動した。
「今、何が起きたのか分かりますか?」
稲本に聞かれたが、里美には分からなかった。
「食器を拭いている男性は、長い間ベルトコンベアで車関係の作業をしていた人で、とても責任感が強いんです。任された仕事は自分が完成させなければならないと思っています。立ち上がった女性は、元、小学校の教員で、世話焼きなんです。以前、男性が拭いた食器に女性が手を出して、大変なトラブルになったことがありました。茶碗の糸尻がきちんと拭けていないとか、同じ大きさの食器ごとにまとめて伏せた方がいいとか、うるさいことを言う女性を、男性が大声で怒鳴りつけたんです。それで他の利用者さんもパニックになって、鎮めるのが一苦労でした。そんな事態を未然に防ぐために、職員は女性をさりげなく洗濯物の分類に誘ったのですよ」
そうだったのか!
里美は感動していた。
ゆったり過ごしているように見えて、職員は利用者の動きに細心の注意を払っている。しかも文字の読み取りが早いからと、元教員の特技を指摘して、巧みに自尊心に訴えている。
「平和な時間が流れているように見えますが、それはトラブルを回避する職員の細やかな配慮の上に成立しているのです」
「ここの職員さんは、皆さん、そんな配慮ができるのですか?」
「訓練ですよ、訓練。認知症のケアは専門技術です」
稲本の言葉が里美の記憶に残っている。
地域包括支援センターに所属していながら、里美には認知症のケアについての専門技術はない。主任介護支援専門員の研修を受けてはいるが、実務経験としては、本人というよりも、むしろ家族を通じてアセスメントをして、ケアプランを立てれば、あとの世話はヘルパーや施設の職員に任せてしまう。
「山内さんの言う通り、私、稲本さんに会ってみたいと思いますが、お忙しい稲本さんが時間を取ってくれるでしょうか…」
「任せて下さい。私がアポイントを取ります。そのときは私も同行させて下さいね」
山内は自分の提案が里美を動かした喜びを隠せない。