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ふじ枝の大正琴(11)
令和01年03月26日
稲本正和のフットワークは軽かった。
「デイが終わってからですから夜になりますが、それでよければ、ええっと、日程は…」
三人が『集いの家』の応接室で向き合ったのは、山内が稲本に電話したわずか三日後の夜だった。
あのときはツバキだったが、床の間には、名も知らぬ野の花の一輪挿しが活けてある。恐らく活ける主は変わっても、来客のもてなし方は引き継がれているのだろう。里美は懐かしさに駆られた。手盆ですがと言って、にこやかにお茶を運んでくれた女性は存命だろうか…。ここには人生の終盤を誰かの支援なしには生きられなくなった人ばかりが集まっているのだ。
里美は早速要件に入ったが、吉田ふじ枝についての概要と経緯を稲本に説明したとたんに、稲本の繰り出す質問にたじろがなければならなかった。
「ふじ枝さんは、生活費はどうしているのですか?」
「収入は年金だけだと思いますが、夫は元教員、本人は元市役所の職員で、子供がいませんから、貯えも含めて、金銭的には困らないと思います」
「いや、そうではなくて、年金の現金化と管理ですよ」
ATMが操作できるのか、窓口で払い戻すのか、通帳や印鑑を頻繁に失くして金融機関を困らせてはいないのか、
「いえ、何しろご本人と接触ができないので、その辺りのことは…」
里美はあいまいに答えながら、自分の調査不足を恥じていた。スーパー同様、銀行にも郵便局にも、認知症を疑われる客については包括への通報を依頼してある。西部包括に通報がないところを見ると、ふじ枝は長年の慣れで、ATMの操作はできるのかも知れない。ふじ枝の家の近くの金融機関を訪ねて、困った利用者の有無を尋ねるだけでも、それらしい情報が得られた可能性があるのに、里美はそれを思いつかないでいた。
認知症になるまでの趣味は?特技は?友人は?日課は?
稲本に聞かれて、里美は改めて自分がふじ枝のことを何も知らないことに気が付いた。ふじ枝がかつて勤めていた市役所は、異動を繰り返す職場である。幅広い年齢層の職員がふじ枝と仕事を共にしたはずである。それからそれへと退職者に当たれば、ふじ枝の交友範囲や活動や人柄について知る人もいたに違いないが、里美はそれも思いつかなかった。
「要するに、市役所を退職して八十歳を過ぎた女性が認知症を発症し、周囲に迷惑をかけながら戸建ての自宅で単身生活をしているが、包括は接触を拒まれて、支援どころか生活状況も把握できないでいる…ということですね」
「はい…」
里美は一言もない。同じ包括の職員として、山内達也も身のすくむ思いだった。
「認知症は初期の対応が大切です。まずは先ほど私が申し上げた方法で対応してみて下さい。結果をご報告下さればまたご相談に乗ろうと思います」
稲本はそう言って里美を見た。里美には何のことだか分からない。
「先ほどの方法と言いますと?」
と聞き直すと、
「え?聞いてなかったのですか?」
稲本の言葉には非難めいたニュアンスが感じられる。
「いえ、お言葉ですが、稲本さんはふじ枝さんについて色々ご質問されただけで、具体的な方法はおっしゃっていないと思いますが…」
里美の言葉も歯切れが悪くなる。
「ほら、不本意でしょ?」
稲本はいたずらっぽく笑って言った。
「今柴田さんが感じている不愉快が、初期の認知症の人が抱く感情ですよ」
「え?」
「おっしゃる通り、私はどんな方法もお伝えしていませんが、お伝えしていたとしても、柴田さんにそれを記憶する能力がないとしたら、今と同じことが起きますよね。記憶に障害のある人は、毎日が初めてのことばかりです。話しかける側は頻回でも、話しかけられる側は初対面なのです。ふじ枝さんにはそんな思いをさせてはいけません」
里美は、買い物から帰るふじ枝を、偶然を装って家の近くで待ち構えたときのことを思い出した。
「ふじ枝さん、こんなところで会えるなんて奇遇ですね」
声をかけたときのふじ枝が見せた、戸惑いに満ちた表情の理由がようやく理解できた。
「稲本さん、私、とても大切な体験をさせてもらいました」
認知症について大抵のことは知っているつもりの里美だったが、体験して初めて腑に落ちることがある。
「ご承知のように、認知症の人の場合、古い記憶は保たれています。ふじ枝さんの過去を知ることから始めましょう。ふじ枝さんにとって心地よい過去が見つかれば、うまく現在につなぐことができるかも知れません」
過去しか持たない人には、過去から接触することを稲本は提案しているのだ。