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ふじ枝の大正琴(15)
令和01年04月06日
それから数日後、いつものようにスーパー・ハヤカワに向かったふじ枝は、所定の場所に自転車を置いたとたん、胸を締め付けられるような懐かしさに駆られた。
大正琴だ!
店頭で和服姿の女性が五人、『ふるさと』を奏でている。一人の女性が中央の小さな机で演奏し、両側に長机がハの字に配置されて、それぞれ二人の女性が体を前後に揺らしながらピックを操っていた。全ての机には白布が掛けられて、見ると、背後の壁に『琴奏会』と大きく墨書した紙が貼られている。五人の演奏者を、十人を超える買い物客たちが取り巻いていた。
ふるさとの演奏が終わったところで、ふじ枝は人垣の前に出た。定番の演奏曲『さくら』が始まった。
昔、ふじ枝もこうやって大正琴を弾いた。
「退職して何もしないでいるとボケるぞ。おれには郷土の埋もれた歴史を発掘する仕事がある。仲間と現地に出かけたり、図書館で調べものをしたり、忙しくしていればボケている暇はない。ふじ枝は音楽でも始めたらどうだ」
夫に言われて入会したボランティア団体が『琴奏会』だった。最初はおもちゃのような安物の琴で練習していたが、ふじ枝の上達は早く、一年経った頃には、選ばれて一人で文化祭に出た。照れくさいから聴きに来るなと言っておいたのに、こっそり会場の隅でふじ枝の演奏を聴いた夫は感動し、高価な大正琴をプレゼントしてふじ枝を驚かした。ふじ枝の六十二歳の誕生日だった。やがて演奏の腕を認められて副会長に推され、数人の仲間とたくさんの老人施設を慰問した。琴の音と『琴奏会』の貼り紙が、ふじ枝に様々なことを思い出させた…と、『さくら』の曲が終わり、
「あれ?副会長さん?副会長の吉田ふじ枝さんではありませんか?私、琴奏会でお世話になった春子ですよ、小山春子」
中央の机で演奏していた女性が声をかけた。
目を見開いて女性を見つめるふじ枝の脳が、二十年の歳月を飛び越えた。
「春ちゃん?」
「そうですよ、春子です、懐かしいですね」
春子の胸に本当に懐かしさがこみ上げていた。あのしっかり者のふじ枝が夫を失って、認知症を発症し、パジャマの上に洋服を着て周囲を困らせている。そう思うと、誰に頼まれたからではなく、心からふじ枝の力になりたいと思った。
「副会長さん、大正琴は?」
「わ、私はもう…」
「ちょっと、ちょっと弾いてみて下さいよ、素晴らしい腕をしていらしたじゃありませんか。ほら、ここで、ちょっとだけ」
私、副会長さんが目標だったのですよと言って、春子が琴をふじ枝に向けて無理やりのようにピックを持たせると、ふじ枝が戸惑いながらトレモロで奏でたのは『荒城の月』の一節だった。往年のような訳には行かなかったが、指が勝手に動いていた。
「弾けるじゃありませんか!」
と春子は感動し、
「そうだ!今から施設の車で送迎して頂いて、みんなでお年寄りのデイサービスに慰問にでかけます。副会長さんにも聴いて頂いて、悪いところを指摘してもらえませんか?」
つもる話もありますからと春子がふじ枝を促したところへ、稲本の運転するワゴンが停車した。
次々と乗り込む七人を見送って、演奏会場の後片付けをする人数の中に、柴田里美と山内達也の姿があった。