ふじ枝の大正琴(17)

令和01年04月11日

 一キロはあろうかという見事な鯛の尾ビレの根元をタオルで握って高々と掲げ、

「どうですか?立派な鯛でしょ?」

 稲本はそれを、重さがよく分かるように、勢いよく俎板の上に置いた。利用者たちが珍しそうに流しを取り囲んだ。透明なビニール袋に鯛を入れて、ピーラーのような形のウロコ取り器で手際よくウロコを取ると、ウロコは流しに散らず、袋の中に納まった。こんな当たり前の工夫でも、見ている者たちは感嘆の声を上げた。出刃の背で取りこぼしのウロコをきれいに取って水で洗い、その水を布巾でよく拭いてから三枚に下ろし、皮を剥いでサクになった切り身を柳刃包丁ですべるように切り分けると、一尾の鯛で六人前ほどの刺身ができた。これを四尾分繰り返す間に、別の職員が袋に入った大根のつまを皿に取り分けながら、

「これは市販のつまで~す。私は包丁が苦手ですが、今はこんな便利なものを売ってま~す」

 おどけて笑いを誘った。

 真っ白なつまの横に半透明の鯛の刺身が盛り付けられて行く。稲本が切り落とした鯛のアラは、下ごしらえをした大鍋の中で味噌汁になる。電気釜でご飯の炊けた電子音が鳴る。デイルームに味噌汁と、炊きたてのご飯のいい匂いが立ち込めた。

「さあ、順番に手を洗って、ここからは皆さんの出番ですよ」

 利用者たちが料理を並べ始めた。大正琴の五人の奏者も黙って見ている訳にはいかなかった。もちろん、ふじ枝も手伝った。

 備え付けの二つのテーブルと長机に、人数分の料理が並ぶと壮観な眺めだった。

「はい、食事の準備が整いました。琴奏会の皆さん、本日は素晴らしい演奏を有難うございました。大先輩の吉田ふじ枝さんも、目を細めて聴いていらっしゃいましたね。これからはお一人でも気楽にふらっと立ち寄っておしゃべりして下さると嬉しいです。大正琴を弾いて下さると、教わりたいという人も出て来るかも知れません。では、感謝の気持ちを込めてささやかな昼食会を始めます。残念ながらお酒はありませんが、楽しんで頂きたいと思います」

 稲本の挨拶に続いて、ケアリーダーの白石朝子が大きな声で、

「いただきま~す!」

 と言った。

 楽しい昼食会だった。

 利用者だけだと静かな食事も、大正琴のメンバーと職員の会話や笑い声で、デイルームはいつになく華やいだ。

「やっぱり食事は大勢でいただく方が美味しいですよね。私、子供たちは自立して別所帯でしょ?恥ずかしい話ですが、実家の母の介護を巡って夫と不仲になって、これで足かけ四年、別居をしています。母は亡くなりましたが、どうしても夫のもとへ帰る気にならず、実家で一人で暮らしていると、食事が味気なくて…」

 分かるでしょ?副会長、と隣の席の春子が声を落として言った。

「この年まで生きて来ると、みんな色々あるわよね。ところで副会長はやめようよ、春ちゃん」

 ふじ枝は打ち解けた口調になっている。

 人間は飲み食いを一緒にすると親しくなると言った稲本の言葉通りのことが起きている。

「近い場所だし、また、ここに来させてもらいましょうよ、ふじ枝さん」

 春子の言葉にふじ枝は何のためらいもなく頷いていた。

 午後三時…。

 利用者と一緒に食器を片づけて、予定があるからと、琴のメンバーはバス停に向かい、ふじ枝は稲本の好意に甘えて軽自動車で家まで送ってもらうことになった。

 全ては稲本の計画通り進んでいる。

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