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ふじ枝の大正琴(18)
令和01年04月13日
「吉田さん。あ、ふじ枝さんとお呼びしても良かったですか?」
春子さんの大正琴は、ふじ枝さんが指導されたんですってねと、稲本が運転席でそう言うと、
「春ちゃんは若い頃から筋が良かったですよ」
ふじ枝が話に乗って来た。
軽自動車は運転席と助手席の距離が近い。それにお互いに前を向いているせいか無用の緊張がない。しかも、話題がぶじ枝自身についての詮索ではなく、久しぶりに会った小山春子のことである点でも、ふじ枝は警戒を解いていた。
「さっき、ちらっと聞こえましたが、春子さんも苦労されているみたいですね」
「大正琴ですか?」
「いえ、実家のお母さんの介護のことですよ。それが原因でご主人と不仲になって、もう四年も別居されているとおっしゃっていませんでしたか?」
「え?そんなこと言っていましたか?何があったか知りませんが、せっかく縁あって夫婦になったのですから、仲良くするべきですよ。私の夫なんか心臓発作でしょ、死んだことにも気が付かないくらいあっけなく逝きました」
「そうでしたか…。あまりあっけないと、残された者はたまらないですよね」
ご主人も大正琴を?と稲本がとぼけて聞くと、
「あはは、男はやりませんよ」
難しい顔をした夫が大正琴を弾いている姿を想像したのだろう。ふじ枝はしばらく笑い続け、
「あの人は歴史でした。郷土の歴史を発掘するんだと言って、仲間と熱心に取り組んでいました。もともとが社会科の先生でしたからね」
稲本はふじ枝の笑い声を初めて聞いた。
「立派なご主人ですね」
「酒も煙草もやらない固い固い人でしたが…」
誕生日に高価な大正琴をプレゼントしてくれたことをふじ枝は打ち明けて、
「あれで優しいところもありました」
「その大正琴は?」
「…」
捨てるはずはないとふじ枝は思うが、どこにあるのかは思い出せなかった。大切な思い出の琴の在り処を思い出せないことが情けなかった。
次の信号を右に、あの角を左にとふじ枝に指示されて、
「ここです。ここが私の家です」
車はふじ枝の家の前に着いたが、降りようとするふじ枝に、
「あ!ふじ枝さん、自転車!自転車!」
稲本が大声を上げた。
ふじ枝は今朝、スーパー・ハヤカワに自転車を置いたまま『集いの家』に向かったのだった。
「よく思い出してくれましたね。すっかり忘れていました」
座り直すふじ枝に、
「それじゃお客さん、行先はスーパー・ハヤカワでよろしいですね」
稲本がタクシーの運転手になったつもりで冗談を言うと、
「運転手さんはお名前を何とおっしゃるのでしたか?」
ふじ枝も冗談めかして聞いた。
稲本は胸に下げた大きな文字のネームプレートをふじ枝の目の前にかざしながら、
「稲本ですよ、稲本正和。鯛をさばく調理人が『集いの家』の相談員をしています。覚えて下さいね。そうそう、今度、ふじ枝さんも大正琴を持ってボランティアに来て下さいよ。私は皆さんを拾って毎日この辺りを回っています。ふじ枝さんの家も分かりましたから、時々声をかけますね」
ボランティアと言われると、ふじ枝はなぜか誇らしかった。
「春ちゃんと一緒なら行ってもいいかな」
十分な収穫だった。
車はスーパーに着いた。
稲本も車を降りて、
「それじゃ、気を付けて」
手を振ってふじ枝の後ろ姿を見送った。
小山春子には、もう少し協力してもらわなくてはならない。