ふじ枝の大正琴(21)

令和01年04月23日

 状況を作る…。それは相手の立場になって考えることだと稲本は思っている。ふじ枝は、夫を亡くした喪失感と、だらだらと続く弔問客への対応で、精神のバランスを崩した。恐らく穏やかに進行していたふじ枝の認知症は、日常を取り戻せない混乱の中で問題行動として顕在化した。支援機関が接触を図れば図るほど、ふじ枝は頑なに心を閉ざしていたが、昔の仲間の小山春子が懐かしい大正琴を演奏している場面に偶然出会うという状況を作ることで警戒心を解いた。高齢者の施設にボランティアに行くという体で『集いの家』に誘い、とうとう毎日でも通いたいと言うところまで漕ぎつけた。食事やおやつの費用を負担することにも抵抗はない。ここに至るまでに小山春子の果たした役割は大きいが、ここから先は小山春子を自然にフェイドアウトさせなくてはならない。そのためには春子に代わる強い信頼感を稲本との間に醸成しなくてはならない。

 機会は思いがけない形でやって来た。

 いつものように家の前で稲本がクラクションを短く二回鳴らすと、嬉しそうに門扉から出て来たふじ枝が、

「あれ?春ちゃんは?」

 後部座席を覗いて言った。

「小山さんは急用ができて、来られなくなりました。本日はふじ枝さんが主役ですよ。さあ皆さんがお待ちです。稲本が送迎致しますので、吉田様、どうぞお乗り下さい」

 車を降りた稲本が後部ドアを開けて貴賓を乗せるような動作をすると、

「どうもありがとう」

 ふじ枝は案外あっさり車に乗った。

 もともとは市役所の職員である。警戒さえ解いてしまえば無用に人を恐れることはない。

 春子がいなくてもふじ枝は、午前十時半から、おやつが済む午後三時半までの五時間を利用者やスタッフと打ち解けて過ごし、機嫌よく帰りの車に乗った。『集いの家』に通うようになってから、ふじ枝は近くのコンビニで食事を買うようになったので、スーパーからの苦情はなくなった。

「それじゃ、ふじ枝さん…」

 明日また迎えに来ますねと稲本がさりげなく言うと、ふじ枝は、はい、お願いしますと頭を下げて、門扉の内へ入って行った。ふじ枝はボランティアのつもりでいるが、頻回に通うとなれば、要介護認定を受けて正式な利用者にしなければならない。そのときが地域包括支援センターの柴田里美の出番になるだろう。正式な利用者であれば、ケアプランに基づいて宅配給食も手配できる。『集いの家』で入浴も洗濯も可能になる。そうなれば、ふじ枝の生活は随分と改善される。ゆくゆくはホームヘルパーの活用だって実現するかも知れない。

 稲本はふじ枝が雑草に埋もれた中庭のアプローチを通って玄関に入るまでは必ず見送ることにしているが、玄関を開けようとしたふじ枝が血相を変えて戻って来た。

「玄関の鍵が開いています!」

 空き巣が入ったのだと、ふじ枝はうろたえている。ここで、鍵を掛け忘れたのではないのかと聞いてはいけない。それではふじ枝の能力を疑うことになる。

「え!」

 稲本も血相を変えて車を降りた。

「何か盗られていませんか?いえ、家の中にまだ泥棒がいるかも知れませんから、私も一緒に点検しましょう!」

 稲本は初めてふじ枝の家の門扉の中に足を踏み入れた。

 雑草が稲本の腰に達するほどの勢いで伸びている。

 ふじ枝に続いて玄関を入った稲本は、

「大事なものは?ふじ枝さん、現金とか、通帳とか、印鑑とか、大事なものは無くなってはいませんか?

 言いながら、内心言葉を失うほど驚いていた。玄関の引き戸の内側は履物が散乱して、そのうちの半分は男物だった。下駄箱の上には、花瓶の中で花が枯れたままになっている。周囲に電気やガスや水道の領収書ばかりが山のようになった丸いカゴや、ポケットティッシュであふれんばかりの菓子箱や、錆びた剪定ばさみや、大小の懐中電灯や、複数の古い電池が無造作に置かれ、郵便局が毎年くれる小さな干支の置物がずらりと並んで埃を被っていた。廊下も階段も。両側には特売のトイレットペーパーとティッシュの箱がうず高く積み上げられて、人ひとりようやく通れるスペースがかろうじて確保されていた。俗に足の踏み場もないと言うが、ふじ枝は物の散乱した和室を二つ通って仏間に向かい、仏壇の下の引き出しを開けて、

「有りました!」

 と、嬉しそうに両手を上げた。その手に郵便局の通帳と、印鑑と、束になった紙幣を持っている。

「通帳は大丈夫ですか?勝手に何か引き出されていませんか?」

「え?」

「通帳と印鑑は別の場所に保管しないと危ないですよ」

「私、よく分かりませんから、点検してみて下さい」

 ふじ枝はそう言って、すがるように通帳を稲本に差し出した。

 デイの相談員は利用者の通帳の残高を見るようなことは決してしないが、ふじ枝はまだ利用者ではない。それにふじ枝は稲本個人を信頼して通帳の点検を望んでいる。

「わかりました。念のため拝見しましょう」

 最近の犯罪は手が込んでいますからねえ…と言いながら稲本はふじ枝の総合口座を見た。夫婦の退職金だろう、定期貯金が三千万円ほどあった。偶数月に二十万円余りの年金が振り込まれる普通預金には、三百万円を超える残高があって、そこから光熱水費などが引き落とされていた。ふじ枝は月初めに生活費として郵便局の窓口で十五万円を下ろしている。決まった日に決まった金額を下ろすことはできているのだ。ただ柔軟性がなく、手元の現金とは無関係に同じ日に同じ金額を下ろすため、余った紙幣は仏壇の引き出しで増え続け、小銭は別の引き出しにあふれていた。

「良かったですね、ふじ枝さん、通帳に不自然な様子はありません。しかし、誰か潜んでいるといけませんから部屋を見て来ます。ここを動かないで下さいね」

 稲本はそう言って、手際よく一階の三部屋と台所と風呂とトイレを点検し、階段を上って二階の二間を見た。物が溢れていてどこの押し入れの戸も開かなかった。風呂とトイレは使った様子がうかがえるものの、ふじ枝の家は、まぎれもなくゴミ屋敷だった。台所は調理をした形跡はなく、卵や総菜や果物の腐敗した混合臭が立ち込めていた。ガスコンロの上には、季節ごとに郵便局から届く全国の名産品のダンボール箱が、封も空けないまま積み上げられていて、これも腐敗臭の原因になっていた。換気のために窓を開けようとしたが、台所はもちろん、トイレの窓や階段の小窓に至るまで、窓という窓には丹念に防犯装置が取り付けてあって、それぞれ二か所開錠しなければ開かなかった。サッシ上部の黒い部品から細い電線が壁を這っているところを見ると、無理に開ければ警報が鳴る仕組みになっている。一人暮らしのふじ枝の不安を掻き立てて、こんな大袈裟な装置を売りつけた訪問販売業者がいたに違いない。簡単に窓を開けられないために、ふじ枝は長い間、よどんだ空気の中で過ごしていたのだ。

「ふじ枝さん、一応全部点検しましたが、怪しい者はいません。安心して下さいね」

 どうです?こういうとき、男は頼りになるでしょ?と稲本が得意気に言うと、

「稲本さん、あんたは本当にいい人ですね」

 ふじ枝は稲本の名前を憶えていた。

 ちょっと待っていてくれと言って台所に消えたふじ枝は、レジ袋を手に戻ってきて、

「世話をかけたお礼です」

 中には消費期限の切れた卵のパックと、ところどころ変色したリンゴと、どういう訳か、使いかけの台所洗剤が入っていた。

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