ふじ枝の大正琴(23)

令和01年04月27日

 その日、迎えに来た軽自動車の後部座席に、久しぶりに春子の姿を見つけてふじ枝は喜んだ。

「春ちゃん!今日は一緒なの?」

「ここんとこ地域の行事で来られない日が多かったの、ごめんなさいね…」

「いいえ、春ちゃんは忙しいんだから当たり前よ、気にしないで。私は皆さんとも仲良くなれたし、稲本さんには本当に良くしてもらってるし、『集いの家』で楽しく過ごしているわ」

「それは良かった」

「毎日こうして出かける場所ができたのも、春ちゃんのおかげだと思ってるのよ」

「何もすることがなくて、家でテレビ観ているだけじゃつまらないものね」

 二人の会話が弾み始めたところで、

「あ、お二人に耳寄りなお話があるのですが…」

 稲本はお得情報を提供するような明るさで切り出した。

「『集いの家』では、お二人がいらっしゃるのを、皆さんとても楽しみにしていらっしゃいます。そこでお二人には正式に利用者としてお仲間になって頂いたらと思うのですが、集団生活ですからどうしても医師の意見書が必要なのです。ところが本日は、たまたま午後から嘱託のお医者さんが『集いの家』にいらっしゃるのですよ。お話ししたら、わざわざ診療所に足を運ばなくても、『集いの家』で問診してもいいとおっしゃってくれています。お二人ご一緒に受診されたらいかがでしょう。ごく形式的な問診です。もちろん意見書を作成したからって費用も要りませんし、『集いの家』に通う義務が生じる訳ではありません」

「それはありがたいですね、稲本さん。実は私も、メンバーを率いて演奏を披露するのではなく、気ままに大正琴を弾いたり、おしゃべりをしたり、お食事をしたり、お茶を頂いたりして一日楽しんで帰るのですから、いつまでもボランティア扱いでは心苦しく思っていたところです。意見書でも何でもよろしく手続きを進めて下さい」

 いいわよね?ふじ枝さんと、春子は言って、ふじ枝に異論がないことを見て取ると、

「ところで稲本さん」

 春子はさらりと話題を変えた。

「利用者になるについては、お願いがあるのですが、聞いてくれますか?」

「え?何ですか?」

 春子が突然打ち合わせにはないことを言い出した。

「私、『集いの家』で皆さんが順番にお風呂を使っていらっしゃるのを見て、とても羨ましかったのです。お風呂って、一人暮らしでも浴槽一杯分のお湯を沸かさなくてはならないでしょ?毎日となると、ガス代だって負担です。何しろ年金生活ですからね。かと言って一度使った湯に次の日も入るのは気分のいいものじゃありませんし…お湯を抜けば浴槽を洗わなくてはならないでしょう?運動だと思えばいいのでしょうが、年を取ると腰を屈めてお風呂を洗うのは正直言ってきついのですよ」

 そうでしょ?ふじ枝さんと同意を求められて、

「分かる分かる、春ちゃんの言う通り。一人暮らしにとって、お風呂は大変よ。でも稲本さん、利用者になれば、私たちもお風呂に入れるのですよね?」

「もちろんですよ、お風呂だけでなく、ご希望でしたら簡単な朝食だって提供しています。問診で問題がなければ、利用者になって頂いた記念に、本日はお二人に初入浴をしてもらいましょう」

 入浴剤はヒノキの香りがいいですか?それとも湯の華がいいですか?と稲本に聞かれ、

「湯の華がいいですね」

 ふじ枝と春子は、二人揃って仲の良いところを見せた。

 その日は小山春子にどれだけ感謝してもしきれない一日になった。

 先に入ってもいいかとふじ枝に断って浴室に入った春子が、

「あ~あ、とってもいい湯でした。おかげさまで、今夜は家でお風呂を沸かさなくてもよくなりました」

 顔をほてらして浴室から出て来て、

「ふじ枝さん、脱衣場のタオルはどれを使ってもいいそうよ」と言うと、

「それじゃ私も頂いて来ますね、何だか二人で旅館に来たみたい」

 懸案のふじ枝の入浴はあっけなく解決した。そのうち着替えを持って来て、脱いだものは洗濯をするようになる日も近いだろう。

 同様に、午後になってやって来た医師の問診を、ふじ枝より先に別室で受けた春子は、三十分ほどで戻って来て、

「さあ、ふじ枝さん交代よ。優しい先生だけど、普通の診察かと思ったら、クイズみたいなことをたくさん聞かれたわ。一つ一つは簡単なのに、とっさに聞かれると答えられない問題ばかりだから覚悟してね。私、全然できなかった」

 そう言って、悔しそうにふじ枝を促したので、ふじ枝はできないことにプライドを傷つけないで認知症の程度を測定するテストを受けた。

 これで要介護認定のための意見書が整った。

 春子はいつの間にか認知症ケアの本質を理解したようだ。

 指示や命令をしないで、ふじ枝の意思が自発的に発動されるような状況を自然に作り出している。

前へ次へ