ふじ枝の大正琴(24)

令和01年04月29日

 ふじ枝は要介護1に認定された。

「ふじ枝さんの場合、月、水、金と土曜日も通って頂くとして、保険の限度を超える一日分と、食事やら、おやつやら、お風呂やらの実費で、月額五万円ほど費用がかかりますが、負担じゃないですか?」

 ふじ枝を自宅に送り届けながら稲本が聞いた。負担かと聞かれれば、負担ではないと答えたくなる心理を稲本は心得ている。案の定ふじ枝は、

「買い物に行く以外は、これと言ってすることのない生活でしたが、平日にこうして通うところができて、昼食と、おやつと、お風呂まで頂いて、これで五万なら安いものですよ。お陰さまで月二十万円ほど年金が入りますからね」

 ちょっと誇らしく言った。

「それじゃ費用は口座引き落としにしましょうよ、皆さんそうなさっています」

 すかさず稲本が提案すると、皆さんそうなさっていますという言葉に反応して、

「同じにして下さい」

 ふじ枝はここでも鷹揚さを見せた。

 玄関前で待つ稲本に、ふじ枝は仏壇の下から貯金通帳と印鑑を持ってきて渡し、口座引き落としの手続きが済んだ。これでデイサービスの費用の問題は解決した。

 ふじ枝の場合、言語による社会性はよく保たれている。スーパーではクレーマーのように嫌われていたが、クレームを言う能力は『集いの家』で利用者に大正琴を教える能力とつながっている。一方、金銭管理や家事能力は破綻していた。『集いの家』と出会わなければ、台所は不潔を極め、入浴はせず、ゴミは歩道にあふれ出して、近所からの苦情で表面化したに違いない。

 ふじ枝は、ときにこってりとした化粧の顔で現れてスタッフを驚かせたりしながらも、これでもう十日間、一人で『集いの家』に通っている。

 稲本はゴミを片づけるチャンスを待ち続けた。

「せっかくお二人とも正式にうちの利用者になって頂けたのに、今日もふじ枝さんお一人の参加でしたねえ…」

 その日の帰り道、稲本が運転席で残念そうに言うと、

「まだ現役のボランティアだもの、春ちゃんは忙しいのよ。そりゃあ一緒だと楽しいけど、私は一人でも大丈夫です」

 助手席でふじ枝が答えた。

 一日おきの入浴で脱いだ下着類は『集いの家』で洗濯をして、次の入浴時に着替えるという習慣も定着した。時折ふじ枝の体が発していた雑巾のような臭いも消えた。清潔で規則正しい生活が戻り、親切な人間関係に囲まれると、性格は穏やかになった。

「さあ、着きましたよ」

 また明後日、朝九時に迎えに来ますと稲本に言われて、ふじ枝が車を降りた門扉の外に、ヘルメット姿の郵便局の男性局員が待っていて、

「会えて良かった、ふじ枝さん、いつもの手続きに寄りました」

 にこやかに話しかけた。

 傍らで赤い単車がエンジン音を立てて停まっている。

「面倒をおかけしてはいけないので、住所と氏名は今回もこちらで書いておきましたから、印鑑だけお願いしますね」

「ああ、そうですか」

 ふじ枝は何のためらいもなく玄関の鍵を開けて中に入り、仏壇の引き出しの印鑑を持ってきて局員に手渡した。局員はバッグの中から取り出した書類の二か所に押印すると、

「それじゃ、こちらはふじ枝さんの控えです」

 一枚をふじ枝に渡して単車で走り去った。

「ふじ枝さん、ちょっとそれ、見せて下さい」

 ふじ枝が稲本に渡した書類の控えは、一年間、季節ごとに地域の名産が届く、郵便局の商品の申し込み用紙だった。担当者の欄は高橋紘一と読める。費用は通帳から引き落とされる。

「これ、何の申し込みですか?」

「いつも親切にして下さる郵便局の手続きですよ」

 ふじ枝は内容を理解していない。

 あの日、台所のガスコンロの上に積み上げられて悪臭を放っていた箱はこれだったのだ。季節に一度届く名産品の箱は、ふじ枝の記憶にも残らないまま、ガスレンジの上で腐って行く。郵便局はその事実を知っているのだろうか。まさか、ふじ枝の理解が乏しいのをいいことに、郵便局が悪徳業者のような真似をしているとは思いたくないが、局員の営業成績のためにこんな形で契約件数を上げているのだとしたら問題である。

 稲本はふじ枝を下ろすと、書類の控えを持って郵便局に向かって軽自動車を走らせた。

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