ふじ枝の大正琴(25)

令和01年05月02日

 自動ドアを入ると、中は特定郵便局だった頃の身近な雰囲気を残していて、窓口で年配の女性局員が親し気な笑顔を見せた。カウンターの中には中堅の男性局員がパソコンで作業をし、年配の局員が何やら書類の整理をしていた。他の局員の態度から、年配の方が局長だと思われるが、この件を直接局長に訴えたのでは高橋紘一の立場が悪くなる。大袈裟な事態になれば、ふじ枝の郵便局に対する信頼を損ねる結果にだってなり兼ねない。過去の不適切な契約について責任を追及することではなく、これから同じことが起きないようにすることが目的なのだと自分に言い聞かせて、

「あの、高橋紘一さんにお目にかかりたいのですが…」

 稲本は名刺を差し出した。

「あ、高橋でしたら、ちょうど今、外から帰ったところです。お待ちくださいね」

 窓口の女性が席を立ち、やがて高橋と一緒に戻って来た。

 稲本は改めて高橋に名刺を渡して、

「ちょっとお時間、いいですか?」

 外へ誘い出した。

 いぶかしそうに稲本に従った高橋は、

「お呼び立てして申し訳ありませんが、他の局員さんのお耳には入れたくなかったものですから…」

 実は吉田ふじ枝さんのことなのだと稲本が切り出すと、高橋の表情にほんのわずかだが険しさがよぎった。

「吉田さんはうちのデイサービスに通われるようになって、私が送迎していますが、郵便局から季節ごとに送られて来る地域の特産品の箱が、封も開けないまま台所で腐っているのです」

 恐らく先ほど自宅前でふじ枝さんが判を押した、この契約ではないかと稲本は控えを見せた。

「封も開けないままですか…」

「お気付きでしょ?吉田さんのこと」

 稲本が誘導すると、

「認知症…ですか?」

 やはり知っていた。

「本人は、郵便局の手続きだと言っていましたから、恐らく契約の内容を理解していません。理解したとしても三十分で忘れてしまいます。新しい記憶はできないのです。特産品の箱が届いたときには、誰が送ってくれたのだろうと疑問に思うでしょうが、箱をガスコンロの上に積み上げたきり、そのことを忘れてしまいます」

 これ、契約者である吉田さんの住所も氏名もあなたの字ですよね?と言われれば、高橋には一言もない。

「ATMはカードを紛失したり暗証番号を忘れたりしてお使いになれないので、ご本人のご希望で、毎月十五万円を私どもが払出票に記入し、署名捺印だけお願いして、現金をお渡ししていました。通帳や印鑑を何度も紛失されて、認知症が始まっているのかなと思うことはありましたが、会話は普通にできていますし、お年寄りのお客様にはよくあることですから、まさかそんなに進んでいるとは思ってもみませんでした。どうか、このことは…」

「いえ、過去の責任を問題にするつもりはありません。それよりも…」

 一度、吉田さんの家の台所を一緒に見て頂いて、積み上げられた箱の撤去をお手伝い頂きたいのですという稲本の提案を、高橋はもちろん承諾した。

「しかし、吉田さんは一人暮らしになってから、窓という窓にセキュリティ装置を取り付けるセールスの被害にあったとかで、とても警戒心が強くて、私はいつも門扉の外でしかお会いしたことがありませんよ」

「いえ、吉田さんは郵便局の局員というだけで信頼しています。だから疑いも持たず高橋さんに判を渡されるのです。私もご一緒しますから、明日の四時半頃に吉田さんの家の前で落ち合いましょう」

 稲本は、今度のことをゴミ屋敷の片付けにつなげられないものかと思っていた。

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