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ふじ枝の大正琴(26)
令和01年05月05日
ふじ枝を送り届ける車の中で、
「ふじ枝さん、やっぱり大正琴がないと淋しいですね」
稲本が言うと、
「あれ?私、今日は弾きませんでしたか?」
ふじ枝は覚えていない。
「弦が切れて修理に出したのですよ」
安物だから、うまく直るかどうか…とつぶやく稲本に、
「確か、うちに琴があったはずですけどねえ…」
ふじ枝が期待通りの返事をした。
「だんなさんからのプレゼントの大切な大正琴でしょ?前にふじ枝さんが話してくれましたよね。家に着いたら一緒に探しませんか?今日は私、これで仕事、終わりですから」
「え?探してくれるのですか?稲本さん」
うちの中は片付かなくて大変なことになってますよ…というところを見ると、ふじ枝も自分の家の現状が普通でないという認識は持っている。
「ついでに片付けちゃいましょうよ。まずは家を片付けないと大正琴は見つかりませんからね」
世話をかけますねえ…とふじ枝が言ったところで車が玄関先に着き、待ち構えていたように高橋紘一が駆け寄った。
稲本も車を降りてふじ枝の傍らに立った。
「印鑑…ですか?」
と、ふじ枝は郵便局員と見れば印鑑を連想してしまう。
「いえ、吉田さんにご契約を頂いているご当地名産品について、ちょっと確認させて頂きたくて…」
「何ですか?そのご当地何とかというのは…」
「これまで季節ごとに郵便局から箱が届いたでしょ?これくらいの大きさの…」
「箱?よく分かりませんが、ちょうど今から探し物をするので、中へ入って下さい」
ちらかっていますよ…とふじ枝は門扉を開けた。
玄関に続くアプローチの両側には腰の高さほどの雑草が生い茂っている。この草もいつか刈り取らなくてはならない。
ふじ枝が玄関の引き戸の鍵を開けた。
「それじゃ、お邪魔しますね」
稲本は家の中に入るのは二度目だったが、高橋はゴミ屋敷の現状を目の当たりにして、一瞬、声を失った。
「ご当地名産品って、これじゃないですか?」
稲本に従って台所に入った高橋は、自分の犯した罪に直面した。全国各地の特産品の箱が、ガスコンロの上で幾箱も無造作に積み重なっている。乾物は箱の形をとどめているが、いくつかは腐敗して崩れた箱をカビが覆い、悪臭を放っている。
頼めば簡単に判を押してくれる固定客として、ふじ枝は高橋の営業成績に貢献してくれていたが、これでは結果的に悪徳業者と変わらない。高橋はさすがに胸が痛んだ。
「ふじ枝さん、昨日判を押して継続して頂いた契約…。あれに基づいて、ここ三年ほど季節ごとに全国の特産品をお届けしていたのですが、封も開けずに積まれていますので、今回の契約は一旦、破棄させて頂きますね」
「はい、よろしくお願いします」
ふじ枝は判を押した事実と、契約の継続と、レンジに積み上げられた箱との関係が分からないまま、郵便局の局員というだけで高橋には従順だった。そこに付け入ったつもりはないが、ノルマ達成のためとはいえ、高橋はふじ枝の従順さに甘えていた。
「それじゃ、片付けますよ」
高橋はたくさんのゴミ袋をカバンから取り出して、用意してきた軍手をはめると、カビや埃を舞い上がらせないように注意しながら箱を片付け始めた。
一方、稲本は、
「一人でゴミを片付けるのに随分苦労されていたのですね。この古い卵、うっかり食べて、ふじ枝さんが病気になったりすると心配ですから処分してもいいですか?」
「ふじ枝さん、この野菜も傷んでいますから捨てますね?」
「ふじ枝さん、シンクのペットボトルやトレーは処分して水が使えるようにしますね?」
いちいちふじ枝の了解を取っては、腐敗しているものや、消費期限の切れているものから順に、どんどん袋に詰め込んだ。
ふじ枝は手伝いたいそぶりを見せながら、どういうつもりか、ティッシュの箱を持ってうろうろしている。
やがて高橋が持参したゴミ袋は使い果たし、稲本の車に用意した袋も次々と一杯になって行く。
「高橋さん、いいのですか?お仕事は」
「今日は午後から休みを取りましたから」
高橋はガスコンロの上を片付け終え、稲本と一緒に他のゴミに取り掛かっている。二時間近くかかってゴミ袋が尽き、台所は何とか台所らしさを取り戻した。明日は燃えるゴミの収集日である。二人は、はち切れんばかりになったゴミ袋を全てそれぞれの車に積んだ。ゴミは当日の朝に出すルールになっている。守らなければ、ふじ枝が非難を受ける。
作業を終えた二人は使えるようになったシンクで手を洗って、
「ふじ枝さん、少しはきれいになったでしょ?冷蔵庫も使えますよ。でも私たち二人では、大正琴を探すところまではとても手が回りませんでした。もう少し人手をかけて、絶対に大正琴を見つけたいと思いますがいいですか?」
信頼できる二人の他人が家に入って台所を片づけてくれたことですっかり警戒心を解いたふじ枝は、
「申し訳ないですねえ…。稲本さんのお知り合いや郵便局の皆さんなら来て頂いて構いませんが、費用はかからないのですか?」
「ふじ枝さんが昔ボランティアをして皆さんに喜ばれたように、今度は私たちがボランティアとしてふじ枝さんのお役に立ちたいのですよ」
稲本はむき出しになったガスコンロの元栓を確かめて、その上にさり気なく適当な箱を置いた。ふじ枝が火を使っては危険だと思ったのである。