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防犯のシナリオ(02)
令和01年05月15日
第二回目の地域ケア会議は全て実名の資料で検討が行われたが、確かにアルファベット表記に比べると格段にメンバーの反応が良かった。
「次は新規ケースです。村井泰三さん、八十歳です。堀北町の一戸建てで一人暮らしをしています。妻の美紗子さんの三周忌を済ませました。妻は五つ年下ですから、七十二歳の若さで亡くなったということになります。心筋梗塞で急死でした。一人娘の典子さんは東京に嫁いでいます。二人のお子さんを育て終えて、娘夫婦はマンションで共働きです。泰三さんとの関係は良好ですが、忙しくて盆暮れに帰省するのがせいぜいです。電話での安否確認と、何かあれば隣家の宮下さんにお願いする体制はできているものの、日常の支援はできません。典子さんの説得で、泰三さんは七十五歳で車の免許を返納し、八十歳で自転車の運転を断念しました。昼と夜は、典子さんが手配した宅配給食を食べています。電気ポットに替えたときに風呂以外のガスは撤去しましたし、喫煙の習慣もありませんから火の心配はありません。年金は厚生年金が月額二十万円近くありますので、金銭的な不安はありません。季節に合わない服装をしていたり、ゴミ出しの曜日を間違えたり、約束をよく忘れるので認知症が疑われていますが、診断は受けていません。月の初めに郵便局のATMで生活費が下ろせていますから、その程度の能力はあるということです。持病はありませんが、風邪を引いたりすれば、近所の木下医院に受診しています。今回、町内会費を納めた納めないで、会計の担当とちょっとしたトラブルがあったためにこちらに上がってきました。トラブルといっても大したことではないそうです」
事務局の説明が終わると、堰を切ったように話が弾んだ。
「堀北町なら古くからの住人が多い町ですよね。他人に対する関心も残っていますから安心です」
「町内会長の桑田さんは穏やかなだけの人ですが、民生委員は頼りになる人です。一度私から様子を聞いて気にかけてもらいましょう」
「桑田さんは確かに穏やかなだけの人ですね。昔、子供会の役員でご一緒したことがありましたが、何かに積極的に取り組むということはありませんでした。町内会長が一年毎の持ち回りだと、当たり外れがありますね。そこへ行くと、昨年度の川上さんは熱心でした」
「奥さんの協力があったからですよ。川上さんの奥さんは合唱のメンバーで私もよく存じ上げていますが、明るくてしっかりした人です」
「しっかりしていると言えば典子さんですよ。実は私自身が七十八歳の父親に免許証を返納させられなくて困っています。なのに車だけでなく自転車まで断念させるだなんて…」
「いくつになっても父親は娘に弱いということですかな?」
「あら、私だって娘ですわ」
「おっと、これは失礼」
会場に笑いが起きる。
こんなことも、これまでにないことだった。
「しかし八十歳ですから、いずれ認知症が進行してATMの操作も難しくなります。そのときの準備も必要ですね」
「木下医院の院長とは医師会で親しくしています。時期をみて彼から認知症の専門医にうまくつないでもらいますよ」
「それは助かります。診断がないと介護保険も使えません。年寄りは医者の言うことは素直に聞きますからね」
「それにしても泰三さんは一日何をして過ごしているんでしょう?畑仕事でもあるのでしょうか?」
「あの人は高校を卒業して以来、ずっと工場勤務のはずですから、畑仕事は無理でしょう」
「家にこもってテレビ三昧だと、筋力も頭も使いませんから、寝たきりの認知症へ一直線ですよ」
「民生委員か老人クラブの役員にそう言って、それとなく趣味の会にでも誘ってもらいましょう。ケア会議に揚がった以上、手をこまねいていないで予防してもらわなくてはね…」
「地域包括支援センターも、見守りだけでなく、一般介護予防事業への参加を促して下さい。要介護認定を受けなくても対象になるんですよね」
「一般事業なら六十五歳以上の高齢者全員が対象です。センターとしても実態を調べて善処します」
実名にすれば、アルファベットよりは議論が活性化するだろうと予想はしていたが、まさかこれほど違うとは河瀬は思ってもみなかった。地域に散在する医療福祉関係者が一堂に会すれば、実名で報告される馴染みの人や場所が記憶を刺激して、参加者の発言を相乗的に引き出して行く。アルファベットで実名を隠すことが、検討対象のプライベートには極力立ち入るなという暗黙の警告になって、発言しようという参加者の気持ちを抑制していたのかも知れなかった。
「古沢さん、高橋先生、お二人のご意見のおかげで、ケア会議はいつになく活発でした。守秘義務だ、個人情報だと及び腰で資料を提供していた私どもの臆病を大いに反省しました」
終了後に河瀬が率直にそう言うと、
「いやあ、正直、私も驚いていますよ河瀬さん。検討を頼まれていながら、主催者から実名を隠されているということ自体、私たち自身が心のどこかで不愉快に感じていたのではないですかな?」
「確かに…。主催者の意図は理解していても、大袈裟に言えば、信用されていないということですからね」
「恐れ入ります」
「ま、皆さんの守秘義務に対する姿勢を信頼しましょう」
高橋医師にそう言われると、河瀬には一言もない。