防犯のシナリオ(03)

令和01年05月18日

 会議のあと古沢卓蔵は、

「先生、ちょっとって行きませんか?」

 高橋賢作を行きつけの寿司辰に誘った。

 平日の夜だというのに店は混んでいた。

 カウンター席の隅に並んで座った二人は、刺身と天ぷらをおまかせで注文して、まずはビールで乾杯した。

「いやあ、本日のケア会議は久しぶりに充実していました」

「それにしても、実名の効果は絶大でしたね。古沢さんの提案のおかげです」

「いえいえ、先生の賛同があったからですよ」

「古沢さんが言わなければ、私が発言していたでしょう。個人情報だ、守秘義務だと、人間の自由な情報交換を妨げることばかり言い募る社会を私は健全だとは思いません」

 高橋は、原田圭一という忌まわしい患者を思い出していた。

 個人情報の取り扱いがやかましくなって、診療所でも患者を番号で呼ぶことにしていたが、原田という初診の患者が何度呼んでも返事をしなかった。耳でも悪いのかと思った受付の女性事務員が、

「原田さん、原田圭一さん」

 と呼ぶと、きちんとした身なりの六十代の紳士が窓口に来た。

 請求書を受け取り金額を聞いた原田が明細を見て、これは何の検査費用かと聞くので、

「認知症の簡易検査です。もの忘れの不安を訴えられたので行ったのだと思います」

 と答えてからが大変だった。

 紳士の声が突然大きくなった。

「ちょっと待って下さい。この診療所では患者を人前でフルネームで呼んだ上に、症状までしゃべるのですか?待合室の皆さんに私の氏名と、もの忘れが知られてしまったではありませんか」

 言葉は丁寧だが話し方に底知れぬ威圧感がある。待合室の十数人の患者たちは一斉に目を伏せて耳をそば立てた。

「個人情報保護法の改正で、患者の病名や症状は要配慮個人情報と位置づけられて、本人の同意なしに第三者に提供することは厳に禁止されました。待合室という不特定多数に聞こえる場所で、安易に患者の名前と症状を公開したことは、守秘義務違反にも問われると思いますが、あなたは……」

 と胸の名札を見て、

「前野順子さんですね?あなたでは責任が取れないでしょう」

 原田は暗に院長を出せと要求した。

 結局、高橋賢作が院長として何度も交渉の相手をし、ポケットマネーを十万円渡して示談にした。

 高橋は名前を口にするだに苦々しそうに、

「原田はね、言葉は慇懃だけど、それはもう執拗で、厄介なことにはしたくないから、監督機関や個人情報保護委員会に相談する前にこうして穏やかに話をしているのだと、昼夜問わず診察中にも電話が入り、私までどうかなりそうでした」

「初めからカネが目的でしょう。悪い男にひっかかりましたね。その患者はもう来ないのでしょ?」

「きっと別の医療機関で同じようなことをしているのでしょうね。個人情報は、速度違反と同じで、漏らしたという事実だけで一方的に責任を追及されます。あれから診療所を辞めると申し出た前野さんを思いとどまらせたり、これからは絶対に患者の名前は呼ばないように職員全員に徹底したり…大変でした」

「敢えて自分の個人情報を漏らさせて、手続き上の不備を脅しに使う者が出現したということですか…。被害を声高に訴えられれば一方的に責任を取らされる点ではセクハラやパワハラも個人情報に似ています」

 今度は古沢が話し始めた。もう二人とも中ジョッキは空けて、二合徳利が一本倒れている。

「前回のケア会議で包括の河瀬くんが連絡網の話をしていましたが、実際に学校現場はあの通りです。運動会の写真でさえ、本人の了解を取らなければ広報に掲載することもできません。私が校長をしている間だけでも時代はすっかり変わってしまいました…あ、ここお酒をもう一本ね」

 来年還暦を迎える現役医師と六十三歳の元校長は、同じ時代を生きて来た者同士として話しが合った。話が合えばアルコールのピッチも速い。

「体育の教員が逆上がりをする女子児童の腰に手をかけただけでセクハラと言われるのですよ。子供の訴えで校長室に保護者が押しかけて来ます。保護者は本来、子供をたしなめる役割ではありませんか。ふたこと目には教育委員会の名前を出すのも、保護者は原田という患者に似ています。最初から対立姿勢ですからね」

「…で、体には手を触れないかわりに口で厳しく指導すれば今度はパワハラでしょ?」

「子どもどころか、校長や教頭が教員を注意してもパワハラですよ。子供はその辺りの機微をよく心得ていて、気に入らない教員を複数で攻撃します」

「子供が教員を攻撃するのですか?」

「まあ聞いて下さい、現場ではこんなことが起きています」

 古沢は退職間際に経験した中学校での出来事を話し始めた。

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