防犯のシナリオ(04)

令和01年05月20日

 いつものように生徒指導の荻山健吾がグランドの点検に通りかかると、二年生の桜井弥生が野球部の部室の陰でしゃがみ込んでいた。

「おい桜井、どうした?お腹が痛いのか?」

 と声をかけたが、弥生は下を向いたまま、無言で腹部を押さえている。ただならぬ様子に、

「だいじょうぶか?保健室まで歩けるか?救急車を呼ぼうか?」

 荻山は傍らにしゃがんで弥生の顔を覗き込んだ。

 荻山の右手がつい弥生の背中に触れた。

 その瞬間、

「キャア~!何をするんですか!やめて下さい!」

 弥生が叫んで立ち上がるのと、三人の女子生徒が駆け寄るのが同時だった。

 一人がスマホを向けていた。

 生徒指導の教員によるセクハラ現場のリアルな動画が、ネットにアップされたのは翌日のことだった。

「何しろセーラー服姿の女子生徒の背中に手を置いて、教員が耳元でささやいているシーンから始まって、キャア~!何をするんですか!やめて下さい!と立ち上がる女子生徒の前で、うろたえる姿が流れたのですから大変な騒ぎになりました」

「まさか学校はそれを鵜呑みにしたのではないでしょう?」

「する訳がないでしょう。教員はみんな荻山先生の人柄を知っています。家族も生徒も大切にする誠実な人ですからね。しかし保護者や教育委員会やネット社会はそうは行きません。誠実そうな人が事件を起こすから面白いのですね。動画は恐ろしい勢いで視聴されて、学校は誹謗中傷の嵐でした」

「女子生徒たちは?女子生徒たちはどう言っていたのですか?」

「ついて来いと言われて部室に行ったら、先生に物陰に引きずり込まれて抱き寄せられた。しゃがんで体を固くしていたが、背中に手がかかったので大声で叫んで助けを求めたら三人の三年生が駆けつけてくれた。桜井はそう言うばかりです。三人の目撃者たちは、先生に連れられて行く桜井が嫌がっているように見えたから、こっそり後をつけたら部室の陰で先生が桜井を抱き寄せていたと口々に言いました」

「それじゃ、荻山先生は…」

「停職のあと、ひっそりと転勤です」

「何とかできなかったのですか、校長として」

「教員の人事は教育委員会の権限ですからね。保護者とマスコミは問題を大きくするし、教育委員会は火を消したいばかりです。結局、セクハラは訴えられたら終りなのですよ」

「真実は闇の中ですか…」

 高橋が怒りを露わにすると、

「いえ、本人も苦しんだのでしょう。卒業後、桜井がわざわざ訪ねて来て打ち明けてくれました。当時、両親の不仲が原因で精神のバランスを崩していた桜井が、CDを万引きするところを三年生の青木玲子に目撃されたのです。青木は二年生の頃からの問題生徒で、荻山先生からスカート丈と髪形について注意されたことを逆恨みしていました。桜井の弱みを握っている青木は、桜井に命じてセクハラの被害者を演じさせたのです。三人の目撃者は青木の仲間…というより桜井と同じように喫煙や援助交際の弱みを握られた、いわば配下でした。事件の関係者に青木は入っていませんから、まったく疑われることはありませんでした」

「まるで暴力団ですね。巧妙です。しかし真実が分かった以上、荻山先生は?」

「いえ、桜井は報復を恐れて秘密にしてくれと言いますし、当時の生徒は卒業してしまっていますし…私としては教育委員会に特段の理解をお願いすることぐらいしかできませんでした」

 それ以来、教員が委縮しましてね、生徒から嫌われないように、生徒を怒らせないように、顔色を窺うようになりました…と述懐する古沢卓蔵は、

「ねえ、高橋先生…私、思うんですよ。セクハラ、パワハラ、守秘義務、個人情報…みんな弱い者を守るためのものでしょう?なのにそういう言葉ができたとたんに、その言葉自体が権力を持つ。誰もが他人から非難されないように言葉に気を付けて気を付けて、率直な話し合いができないでいます。敵国語を使うと非国民と非難された忌まわしい時代がありましたが、言葉狩りをする戦中の重苦しい空気が、形を変えて社会を支配しているような気がしませんか」

 そろそろ目が座っている。

「同感です。全く同感です。言葉に弱く臆病な傾向は民族の習性ですかねえ…。教員より生徒や保護者が強い、医師より患者や看護師が強い…尊重することは大切ですが、怯えることとは違います。今は上司が部下を恐れている。困った時代です。とにかく今夜は飲みましょう、古沢さん」

 高橋も酩酊状態でお銚子をもう一本注文した。

 と、少し離れた場所で盛り上がっていた数人の会社員のテーブルから大きな声が聞こえて来た。

「とにかく、島村、今期のような営業成績では、お前、来年は辺鄙な田舎の営業所で辞表を書くことになるぞ!」

「あ!部長、今のはパワハラ!完全にアウト!レッドカードですよ」

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