防犯のシナリオ(05)

令和01年05月23日

 その夜、したたかに酔ってタクシーで帰宅した古沢卓蔵を、

「珍しいわね、そんなに飲んで。お風呂、先に入ったわよ」

 妻の喜代子はパジャマ姿で迎えた。

「診療所の高橋先生と寿司辰へ寄って来たんだ」

 そう言いながら卓蔵は、カバンから取り出したケア会議の資料を食卓に置いて、ふう…と椅子に腰を下ろした。

「先生とは実に話が合う」

 水…と上機嫌で言って卓蔵は夕刊を手に取ったが、一面の記事を見たとたん、

「何?また子供の自殺…今度は小学生か」

 ため息の混じった声を出した。

「知らなかったの?今日は午後からそのニュースばっかりよ」

 卓蔵は喜代子が運んだコップの水を一気に飲み干してテレビをつけた。夜のニュース番組で、若い女性のアナウンサーが、そびえ立つ灰色のマンションを見上げて緊迫した表情で中継していた。

「現在私は、男の子が自殺した現場に来ています。六年生の男の子は、このビルの七階から飛び降りて自殺しました。男の子が登校して来ないという連絡を担任の先生から受けた母親が、慌てて勤務先を出て自宅に向かいましたが間に合いませんでした。男の子はランドセルを背負ったままで飛び降りており、頭を強く打って即死状態でした。遺書のようなものはありませんでした。前日まで普段通りで、自殺の原因は思い当たらないと、保護者も学校も困惑を隠せません。第三者による調査委員会を設けて、いじめの有無や自殺の原因について調査が行われるとともに、他の生徒に対して臨床心理士による心のケアが行われる予定です」

 現場から中継でした…とカメラがスタジオに戻り、コマーシャルになった。

「最近は子供たちが簡単に死ぬ…」

 卓蔵は腹立たしそうにスイッチを切った。

 自殺年齢がどんどん低年齢化している。

 三年前まで校長をしていただけに、卓蔵には自殺者を出した学校の苦労は想像がついた。亡くなった子供は気の毒と言うしかないが、学校としては死んだ子供よりも生きている子供と教員を守らなくてはならない。どんな自殺にも、たいてい背後には陰湿ないじめが存在するが、早々といじめを認定して加害者を特定すれば、今度はいじめた子供の中から自殺者が出かねない。そんなに早くいじめが認定できるなら、どうして被害者が自殺する前に気が付いて対処ができなかったのかと担任も責められる。いじめた子供や担任に不測の事態が起きれば、調査方法や公表の仕方に配慮が足りなかったのではないかと、それはそれで非難されるに違いないのである。

「それにしても原因が分からないのでは、ご両親もたまらないわよねえ」

 と言う喜代子に、

「いや、いじめた子供が特定できたとして、その子らが罰せられないというのも親としてはやりきれないぞ。なにしろ刑事責任を問えない年齢だからなあ」

 卓蔵は夕刊を二つ折りにして食卓に置いた。

「そうか…確かにそうよね。長い目で見たら、相手が分からない方が諦め易いかも知れない。いじめの調査がいつだって歯切れが悪いのにはそんな深い考えがあったんだ…」

「いや、実際、調査は難しいんだよ。子供たちは口裏を合わせて特定の生徒をいじめの加害者に仕立て上げることだってある」

「まあ、そんなひどいことを…」

 喜代子は言葉を失った。

 ほんの一人二人の歪んだ子供の影響力を警戒して、教員の児童全員に対する信頼が揺らいでいる。そんな現場に夫はいたのだ…と喜代子は改めて思った。そう言えば、退職間際の中学校で生徒指導の教員によるセクハラ事件があった。世間の非難に屈せず、最後まで教員をかばい続けた夫の孤独な姿は痛々しかった。それが一人の女子生徒が仕組んだ芝居であることを知ったときの夫の憔悴した様子が喜代子の脳裏に焼き付いている。

「もう…いいか…」

 あのとき夫がつぶやいた言葉の意味は未だに分からない。

 卓蔵がよろりと立ち上がった。

「飲んでるんだから、風呂はやめた方が…」

 と心配する喜代子に、

「大丈夫だ、長湯はしない」

 昔から卓蔵は言い出したら聞かない。

 明日が月に一度の新聞の回収日であることを思い出した喜代子は、食卓の夕刊を片付けたが、ケア会議の資料を重ねて持ったことに気が付かなかった。

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