防犯のシナリオ(06)

令和01年05月26日

 秀夫には発達障害とか自閉症スペクトラムとかという、難しい障害名が付いていることを西岡達彦は知ってはいたが、脳の中で秀夫を制御しているメカニズムの精巧さには、これまで兄として何度も驚かされている。夜は九時になると電池が切れたように眠りにつき、朝は六時になるとスイッチが入ったように目を覚ます。とりわけ視覚刺激に関する記憶力は超人的で、保育所ではこんなエピソードが今も語り草になっている。

 年中組に上がって間もない頃、登園した秀夫は、教室の黒板を端から端まで使って、カタカナと数字とアルファベットの入り混じった長い文字列を一気にチョークで書いた。

「ハタ10S2トクペノ6S3…何これ?ヒデくん」

 言葉を持たない秀夫は黒板を眺めて興奮している。

 保育士たちは、発達の一段階として、覚え始めた文字や数字を書くことに興味があるのだろう程度に考えていたが、毎朝必ず秀夫が板書する意味不明の文字の羅列が気になって、それをノートに記録しておいた保育士が翌朝、驚嘆の声を上げた。

「これって昨日と全く同じ文字列ですよ。こんなに長い文字や数字の順番をヒデくんは正確に覚えているんです!」

 やがて保育所で書く文字列を完璧に逆さにしたものを秀夫が自宅で書いているという母親からの報告で、意外な事実が判明した。秀夫は自宅と保育所の間にある相当数の電柱の『電柱番号』を記憶して順番通りに書いていた。だから行きと帰りとでは配列が逆になるのである。

 秀夫は驚異的な記憶力の持ち主であると同時に、対人関係が成立し難い自閉症であることも明らかになった。言語によるコミュニケーションや感情の交流は困難を極めたが、視覚による指示を理解してしまえば反応は正確だった。六時を指した文字盤と、布団をたたんで着替えをする絵が一緒に示されると、きちんと六時に起きて布団をたたんで着替えた。六時十五分を指した文字盤と、トイレを済ませて洗面をする絵が一緒に示されると、秀夫は正確にその通りにした。ちょうどそのときに誰かがトイレを使っていたりするとパニックになったが、周囲が配慮さえすれば事態は回避できた。秀夫は一日の日課を絵で示した手帳を常時首から下げて、義務教育の間を特別支援学級で過ごした。日課が習慣化してしまえば、腕時計を見るだけで、絵がなくても実行できるまでになった。中学二年生の夏に秀夫は電話帳に強い関心を持った。素早い指さばきで電話帳をめくりながら、文字や数字が変化する様子に夢中になった。電話帳さえあれば寝食を忘れて同じ動作に熱中する常同行動は、生活の妨げになった。特別支援学校の高等部の教員の努力でかなり改善されたが、名簿のたぐいに対する特別な関心は残ったまま卒業し、障害者の作業所に勤務して三年になる。

 玄関のドアに取り付けてある鈴が鳴った。

 いつものように八時きっかりに、秀夫は無言で作業所に出かけて行った。

「くふうをすれば、施設なんかに入れなくったって、秀夫はちゃんと家で暮らせるんだから。あんたも力になってやってね」

 作業所に出かける秀夫の気配が分かるようにと、母親がドアに鈴を取り付けてから三年…。秀夫は二十一歳になり、達彦は大学の四年生に進級したが、父親は六月三日の誕生日をもって満五十五歳で職を失った。以前から会社の業績が悪いという噂はあったが、まさか自分がリストラの対象になるとは思わなかった。意地を張れば職場に残れぬことはなかったが、意に沿わぬ部署に異動させられて、日の当たらない仕事に就くのは耐えられなかった。本来なら六十歳で支給される金額に三百万円ほど上乗せした退職金でマンションのローンを払い終えた。

「これで貯えもないが借金もない。しばらくは雇用保険も出る。秀夫は作業所に定着したし、来年は達彦も就職だ。新しい仕事を探す前に心機一転、夫婦で温泉にでも行くか…」

 と出かけて行って、二人とも帰らぬ人となった。

 峠道でカーブを曲がり損ねて谷に落ちた自損事故だった。

「こんなこと言っちゃあれだけど、あいつは本当に運が悪いぞ、ローンを払ってなきゃ退職金は全額残ったんだ…」

 通夜の席で父親の兄が言った。

「やっぱり生命保険は入っておくべきだったねえ。子供が大きくなったから解約するって言われたとき、ヒデくんには障害があるんだから、いざというときのために保険は残しておいたらって私は反対したんだけどさ」

 母親の妹は保険の外交員をしている。

 両親を一度に失ったというのに秀夫は通夜も葬儀も欠席した。生活のリズムを崩すとパニックになる。マンションで何事もなかったように九時に寝て六時に起き、八時には作業所に出かけて行く秀夫のことを誰も咎めなかった。

 全ては葬儀屋が手配するとは言うものの、通夜を終え、ささやかな葬儀を済ませ、形ばかりの仏壇の前に骨壺と位牌を二つずつ並べるまでの一切は、喪主として達彦が判断しなければならなかった。相続の対象は3LDKのマンションだけだったが、

「相続財産は基礎控除の範囲内ですからお二人に相続税はかかりません。固定資産税さえ払っていただけば、マンションの名義は慌てて変更しなくても当面不都合はありませんよ」

 市役所の助言に従ってそのままにしてある。

 何もかもが終わってほっとしたとたん、達彦は言い知れぬ悲しみに襲われた。家族と言えるのは弟だけになった。一旦、悲しみを封じ込めなければ、遺体との対面も、警察の事情聴取も、死亡にまつわる様々な手続きもできなかったが、ようやく煩雑な作業が一段落して、封じ込めた感情が解放されてみると、たった一人、悲しみを共有できるはずの秀夫は、その能力を持たなかった。

「くふうをすれば、施設なんかに入れなくったって、秀夫はちゃんと家で暮らせるんだから。あんたも力になってやってね」

 母親の言葉を思い出した。

 大学の学費は前納してあったし、必要な単位もほぼ取得した。

「よし!切り替えよう。何があっても生活のペースを崩さない秀夫の方が、俺よりもしっかりしてる。明日からはアルバイトを夜に入れて就職活動だ」

 ネットで求人情報を検索する達彦をよそに、秀夫が自分の部屋に入って電気を消した。きっかりと午後九時だった。

前へ次へ