防犯のシナリオ(08)

令和01年05月30日

 キャリア開発課では大した収穫は得られなかった。それどころか、

「西岡さんの場合、どう考えても家庭環境がネックです。こんなことを申し上げるのはあれですが、ご両親がいらっしゃらないというだけで一般的にはハンディです。加えて障害のある弟さんは、実質的にあなたが保護者ということになりますよね。これも採用する側にはリスクと映るでしょう。どうしても弟さんと同居しなくてはいけませんか?」

 暗に秀夫の施設入所を提案した。その職員のひどく事務的な表情を思い出すと、達彦はマンションに戻ってからも無性に腹が立った。そんなことは言われなくても分かっていた。しかし施設入所となれば、秀夫は大変なパニックになる。施設では対応できず、精神科の病院に送られて、保護室に閉じ込められて、向精神薬を飲まされて…想像は悪い方にばかり広がって行くが、最後は決まって死んだ母親の言葉が聞こえて来る。

「くふうをすれば、施設なんかに入れなくったって、秀夫はちゃんと家で暮らせるんだから。あんたも力になってやってね」

 玄関の鈴が鳴って秀夫が帰って来た。

 今日も作業所の職員の運転する軽トラックに乗って古紙回収をして来たのだろう。無言で洗面所に行くと、手を洗い、うがいをして部屋に上がって行く。六時きっかりになると下りて来て夕食を食べる。コンビニの弁当でもコーンフレイクでも秀夫は好き嫌いを言わず黙々と食べるが、椅子の位置が変わっていたり、座面に物が置いてあるとパニックになる。秀夫は、脳が記憶したプログラムに沿って行動し、将来に対する不安からも、過去に対する後悔からも解放されている。そんな秀夫の障害をふと羨ましく思うときは、自分の心の方が疲れていることを達彦は知っていた。

 今日は秀夫の好物の激辛のカレーを作ってやろう。作ると言っても、ルーは冷凍してある作り置きのものを温めるだけでいいし、ご飯はパックになったものを電子レンジに入れて三分で出来上がるから時間はかからない。

 達彦は食卓で中山のシナリオを読み始めた。ざっとななめ読みをしたが、やはり作品としては物足りなかった。地域から孤立した認知症高齢者の孤独はそれなりに描かれてはいるが、物忘れが増え、約束が守れなくなり、親しくしていた人たちが遠ざかって行くプロセスと、その間の本人の苦悩や家族との関係が描けていないため、人間に迫れていない。非正規雇用の若者の社内での孤立の様子と低賃金の現実は描けていても、非正規雇用にならざるを得なかった若者の事情が描かれていないため、やはり人間の描写には失敗していた。ましてや、その二人の間に生まれる奇妙な友情のくだりは噴飯ものとしか言いようがなかった。

「あんた、昨年バイクの事故で死んだ、わしの孫によく似ているなあ…」

 という台詞はそもそも認知症高齢者のものではないし、その一言で、子供の頃に可愛がってくれた祖父のことを思い出して、八割まで成功していた詐欺の実行を諦め、祖父の好物だった桜餅を買って高齢者を訪ねるという展開は不自然でしかない。

 しかし、若者が計画した詐欺の手口だけは巧妙でリアリティがあって達彦を夢中にさせた。

 まず若者は、財布の紛失を交番に届け出る。

「どこで紛失されたのですか?」

「家電量販店のトイレだと思います。売り場で財布がないことに気付きました。急いでトイレに戻ったのですが、ありませんでした」

「家電量販店のトイレですか…。次に入った人が届けてくれるといいですが…で、現金はいくら入っていましたか?」

「二万一千円です。他に免許証とクレジットカードと郵便局のキャッシュカードが入っていました」

「免許証はすぐに再交付の手続きをして下さい。試験センターなら即日新しい免許証が交付されます。クレジットカードはカード会社、キャッシュカードは郵便局に速やかに紛失の届をして下さい。不正使用ができないようにしてから再発行の手続きです。あなたまさか暗証番号を誕生日にしてはいませんよね?免許証と一緒に紛失すると大変危険ですよ」

「分かりました。早速そうします」

 若者は警察官の指示通り手続きをするが、実は財布は紛失などしていない。これで若者には失効した郵便局のキャッシュカードと再発行されたキャッシュカードの二枚が手に入る。

 若者は認知症を発症して記憶力が低下した一人暮らしの高齢者に、郵便局員を装って次のような内容の電話をかける。離れた局のATMであなたの口座から多額の現金が引き出されそうになったのをセキュリティシステムが察知して止めました。カードが偽造された可能性があるので警察に届けました。やがて警察官が自宅を訪ねて事情をお伺いすると思うので通帳とカードを用意して待っていて下さい。

 次に若者は警察官を装って高齢者を訪ね、それらしい質問をしたあとでこう提案する。最寄りの郵便局しか利用されないようですから、他の郵便局のATMでは現金を引き出せないように、警察から郵便局に依頼しましょうか?皆さんそうされていますよ…と高齢者から通帳とカードを受け取って番号を控える一方で、一枚の用紙を渡し、中央の四桁のマスに暗証番号を書かせ、極秘と書いた封筒に入れてしっかりと封をさせる。封筒を受け取った警察官は、通帳とキャッシュカードを重ねて高齢者に返すが、返したのは失効した若者のカードであることに高齢者は気が付かない。若者は高齢者のキャッシュカードと封筒の暗証番号を使って現金を引き出すことに成功する。

 複雑な手口を考えたものだ…。あとで被害届が出れば、犯行に使われたキャッシュカードの持ち主である若者が真っ先に疑われるだろうが、財布も免許証もクレジットカードも同時に紛失の手続きがなされている事実が分かれば、犯人候補からは外される。被害者は認知症で最近の事実から先に忘れてしまうから、若者の顔どころか、うまく行けば詐欺被害全体の記憶を失っている。達彦が中山の考案した詐欺の手口の巧妙さを理解してふと顔を上げると、既に食卓に着いた秀夫がイラついて、左右に体を揺らしていた。その手に何やら会議の資料のようなものを持っている。回収した古紙の中から拾って来たのだろう。表紙には桜小学校区第二回ケア会議資料と書かれていた。

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