防犯のシナリオ(09)

令和01年06月02日

 秀夫が寝た。

 枕元にケア会議の資料が置いてあった。こんなもののどこが秀夫の興味を引いたのだろう。第二回桜小学校区ケア会議資料と書いた表紙をめくると、あっけなく答えが出た。最初の頁が『見守りを要する単身認知症高齢者』というタイトルで、氏名と生年月日と住所と電話番号を書いた十数人の名簿になっていた。漢字や数字が整然と並んでいると、秀夫の脳は、かつて夢中になった電話帳と同様の刺激を感じてしまうのだろう。

 へえ…個人情報だ、プライバシーだ、守秘義務だとやかましい世の中で、こんな資料が古紙として回収されるんだ…。

 達彦はそのことにまず驚いた。

 名簿をめくると、個人ごとの記録が綴られていて、家族の状況や認知症の程度、年金の金額や生活費を現金化する方法、生活上の不安から近隣との関係までがこと細かに記載してあった。その中に、村井泰三という八十歳の新規ケースが目に留まった。一戸建て住宅で独り暮らし、一人娘は東京にいて疎遠、洗濯物を干したことは忘れてしまうが、月の初めに郵便局のATMで生活費を現金化する程度の能力はある。厚生年金が二十万円余りあって金銭的な不安はない。

 達彦の脳裏で村井泰三が、中山のシナリオに出て来る高齢者と重なった。あの若者の計画を現実に達彦が実行したとしたらどうだろう…。達彦は演技には自信がある。郵便局員を装って電話をし、泰三を騙すことぐらい訳もない。警察官の扮装をして暗証番号を紙に書かせ、キャッシュカードをすり替えることもそれほど難しいことではない。ケア会議の資料によると、村井泰三は月初めにATMで生活費を下ろす…ということは、月の初めのうちに計画を実行すれば、泰三が被害に気付くのは一か月近くあとになる。一か月近くも間隔が開けば、認知症の泰三は警察官に扮した達彦の顔はおろか、一連の事実すら覚えていないに違いない。達彦と村井泰三には、どこを探しても接点はなく、しかも達彦のマンションと村井泰三の住む桜小学校区とは同じ市内でも東西に離れている。中山のシナリオ通りにすれば、被害届が提出されて警察の捜査が開始されたとしても、犯人は達彦のキャッシュカードを拾った誰かということになる。問題は警察官に扮して泰三の家を訪れる際に、近所の住人に目撃される危険性と、ATMで現金を下ろすときの監視カメラ対策だけだろう…と、そこまで考えを巡らせたとき、達彦は白昼夢から覚めたようにかぶりを振った。

 どうかしている…。

 中山のシナリオが描く非正規雇用の若者の姿が、達彦の不安と重なっていた。年功序列は崩れ、能力主義の世の中になったのだと漠然と信じていたが、芸術やスポーツの分野ならともかく、企業に雇用されようとすると、まだまだ能力以外の要素が評価の対象になった。複数の求職者がいて、能力に遜色がなければ、企業は能力以外の要素を比較してリスクの少ない方を採用する。例えば、両親が揃っているという事実からは、関係の破綻を避けるために感情を律する家族の生き方が類推される。そんな家庭で育った者には、組織の破綻を避けて過度に感情的にならない協調性が期待できるだろう。父親の職業がサラリーマンであれば、組織のしがらみや理不尽に対する愚痴をさんざん聴かされていて、過剰な正義感からは距離を置くことができるだろうし、個人でものごとが決定できない環境での感情処理の方法を身近に経験していることが類推される。父親の職業が職人であれば、仕事に誇りを持って技術を磨く一途な生き方に敬意を抱くと同時に、仕事の仕方について他人に口出しされることを嫌う傾向があるに違いない。出身校の知名度からは、家庭の財力や教育姿勢、刹那的な享楽を犠牲にして受験という目標に向かって努力する本人の人間像が類推される。採用すれば与えられた職務に対しても禁欲的な努力が期待できるだろう。もちろん上質の学生たちが集まった学校の出身者であれば、学校つながりの良好な人脈も期待できる。どれもこれも広大な例外の裾野を持つ一般論でありながら、採用する側は最終的には一般論を拠り所に合否を決める。会社のためというよりも、採用後しばらくして人材に問題があった場合に、採用の時点で予想できなかったのかと責任を問われるリスクを人事担当者は避けたいのである。そんな一般論が出る幕のないほどの魅力を面接官に感じさせればいい。自分には演劇部で鍛えた表現力があるではないかと気負ってはみるが、それを打ち消すようにキャリア開発課の職員の言葉がよみがえる。

「ご両親がいらっしゃらないというだけで一般的にはハンディです。加えて障害のある弟さんは、実質的にあなたが保護者ということになりますよね。これも採用する側にはリスクと映るでしょう。どうしても弟さんと同居しなくてはいけませんか?」

 すると今度はそれを打ち消すように、

「くふうをすれば、施設なんかに入れなくったって、秀夫はちゃんと家で暮らせるんだから。あんたも力になってやってね」

 母親の言葉が聞こえて来る。

 疲れているのだろう。達彦は、この頃、自分が母親の意思を尊重しているのか、母親の言葉に縛られているのかが、ふと分からなくなるときがある。

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