防犯のシナリオ(10)

令和01年06月04日

 達彦が指摘した通り、

「これじゃ登場人物に全然リアリティがないよ」

 中山のシナリオはまたしても監督の段階で却下された。

「最近は、あちこちの福祉団体が寸劇を披露して、高齢者を狙う振り込め詐欺への注意喚起を行っているから、そういう団体に短い台本を書いたら喜ばれるんじゃないかな。今回のシナリオも、詐欺のトリックだけはよくできていたからね」

 自信作だと胸を張っていただけに、監督の言葉に傷ついたのだろう、その日かかってきた中山亮一からの電話は達彦を驚かせた。

「先輩、おれもう、演劇もシナリオもやめることにしました」

 声の明るさが、相談ではなく報告であることを感じさせた。

「…と言うことは、この前のシナリオがまたダメだったんだな?しかし何もやめることはないだろう。演技もシナリオも悪いところ指摘されて上達するんだ。お前のことがどうでもよけりゃ、褒めていればいいんだぞ、うまいうまい、大したもんだって。悪いところ指摘してくれる人が本当にお前のこと思ってくれている人なんだ。ま、指摘の仕方には問題があるかも知れないけどな」

 すると中山の方が達彦を説得するような調子で、

「先輩、リアリティって何ですか?演技にもシナリオにも、リアリティがないって、先輩や監督にずっと言われ続けて来ましたが、おれ、今回、すごく納得したんですよ。考えて見れば、これがおれのリアリティなんだなって。人には超えられない限界ってものがあります。おれがおれ以外のものになることを上達って言われても困るのです」

 ここでやめるのが自分のリアリズムだと言って中山の電話は切れた。考え直せと言おうとしたが、本音では、いい決断だと思っていた。中山には才能がなかった。技術なら努力で補えるが、才能だけはどうしようもない。これがおれのリアリティなんだという言葉が達彦自身に重なった。あれから三社の採用試験を受けて、三社とも不採用だった。達彦には両親がいない。自閉症の弟がいる。これが達彦のリアリティだった。努力では超えられない達彦の限界は、技術でも才能でもなく家族環境だった。同じ限界を抱えている以上、これから先どれだけ会社を受けようと結果は同じに違いない。自分の限界を自覚して中山がシナリオへの挑戦をやめたように、達彦も会社に雇用されることをやめようと思った。雇用されないで生計を立てようとすれば起業するしかない。

 起業…。

 退部を決意して達彦に電話をかけて来たときの中山の声が明るかったように、起業を決意した達彦の気持ちは、初めて一人暮らしをするときのように初々しかった。

 起業を意識したとたんに世の中の見え方ががらりと変わった。それまで大手企業の看板やオフィスビルばかりに向いていた達彦の目が、小さな店に向くようになった。見渡すと町には実にたくさんの個人の事業所が営業していた。理髪店、喫茶店、ラーメン店、板金塗装の工場、衣料品店、不動産屋、八百屋、パン工房、弁当屋、学習塾、洋菓子店、書店…二代目、三代目が継いでいたとしても、小さな間口でささやかに営業している店は、結局は他人に雇われるのを好まない人たちが起業したことによってこの世に存在している。

 達彦は最近街角に若者が開店したラーメン屋の開業を想像してみた。まずは、気に入った味の店で働きながら調理と経営を覚える。独立する自信がついたら、店舗を借りて改装し、冷蔵庫、エアコン、ガス、水回り、テーブル、椅子を初め必要な道具や器財を整えて看板を掲げる。何人来るか分からない客を見込んで食材を仕入れる。一人でも従業員を雇えば、しばらくは赤字でも給料を支払わなくてはならない。それやこれやで、開業にいったいどれくらいの資金が必要なのだろう。若者は、それだけの金額を貯えてから起業したのだろうか。それとも起業といえば、安い金利で融資してくれる制度でもあるのだろうか。保証人は?担保は?と考え始めると、起業の夢はどんどん遠のいてゆく。しかし、町にはこんなにたくさんの個人事業主が活躍しているのだ。達彦にできないはずはないではないか。

 達彦は起業に関する本を買って来て読んだ。起業関連のネット情報も調べた。そして最も実現可能性のある事業を発見したときは、雲間から光が射し込んだような喜びを感じた。

 障害者就労支援事業…。

 これなら間接的だが既に秀夫で経験している。軌道に乗れば秀夫を利用者の一人として達彦の事業所に移すことだってできる。しかし調べれば調べるほど福祉事業の立ち上げの複雑さはラーメン屋の比ではなかった。事業に参入するためには法人格が必要だった。障害者に労働の機会を提供するスペースは、一人当たりのおおむねの面積が決められていた。そこで働く職員の数や要件にも基準があり、職種によっては雇用後の研修まで義務付けられていた。公的な融資制度や助成金も複数あるが、それぞれに条件が異なっていて、資金を調達するにも、行政の認可を受けるにも、膨大な書類を作成しなければならなかった。開設に当たって整えなければならない就業規則や給与規定、社会保険を初めとする各種公的保険への加入手続き等を含めると、何から手を付けていいやら皆目見当もつかない状態で途方に暮れた達彦が、パソコンで「障害者就労支援事業立ち上げ」と検索すると、事業所の立ち上げの全過程をサポートしてくれるたくさんの会社がヒットした。行政書士や社会保険労務士が有料で個人起業家の支援をビジネスにしているのだった。

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