防犯のシナリオ(11)

令和01年06月06日

 『私は来春大学を卒業見込みの学生です。自閉症の弟と二人暮らしであることが原因で一般企業への就職がうまく行きません。そこで私自身が障害者の就労支援事業所を立ち上げて、弟のような障害を持つ人たちの、労働を通じての社会参加を促進し、将来的には弟も私の事業所で働かせたいと思ってます。ついては私のような社会経験のない者でも、御社の支援を得て起業が可能であるか、そのために必要な条件は何かについてお尋ねしたくメール致しました。ご回答をお待ちします。   西岡達彦』

 行政書士が代表を務める福祉起業支援社という会社の質問フォームに達彦がメールを送ると、丁寧な返信が来た。

『お問い合わせ有難うございます。就職で苦労されているご様子、お察ししますが、それが強い動機になって起業を検討していらっしゃるのですから、私どもとしては歓迎いたします。雇われる側を断念して雇う側になる。就労支援事業は、障害者の就労機会だけでなく、そこで働く専門職の雇用も創出することになります。雇用を創り出すことは大変価値のあることです。雇用される側とは質が違います。世の中の労働者は起業家がいて初めて生活が成立しているのです。社会経験のなさをご心配されているようですが、起業の実態は随分様変わりしています。修行しながら資金を貯めて、ほとんど初老の年齢で事業主になるという時代は過去のものになりました。特に福祉事業は様々な公的な優遇資金も利用できますし、法人設立から事業の運営までお世話をする当社のようなビジネスも出現しました。西岡様のように強い意志さえあれば、経験がなくても起業は十分可能なのです。とは申しましても初期投資ゼロという訳には参りません。当社にお任せ頂く費用を含めて、まずは三百万円程度ご用意下さい。お目にかかるのを楽しみにしています。一緒に具体的な計画を進めて参りましょう』

 達彦は返信メールを何度も読み返した。

『雇用を創り出すことは大変価値のあることです。雇用される側とは質が違います。世の中の労働者は起業家がいて初めて生活が成立しているのです』

 という文面には感動さえした。確かにその通りだった。世の中の仕事は、おしなべて誰かが、人の役に立つために、資金を投じ、リスクを冒して始めたものである。周囲に反対されたかも知れない。失敗すれば何もかも失う覚悟をしたかも知れない。たくさんの事業が生まれて消えて…存在を許された事業だけが規模に応じて人を雇用し需要に応えている。雇用されて起業家の仕事に参加するのは、たとえ才覚はあっても、リスクを冒したくない安定志向の者たちである。彼らはリスクを冒さないというだけで雇用を創出する側には回らない。起業家に雇用されて報酬を得、家族を養うことを安定と考えている。大手の会社であればあるほど創業者の顔も苦労も見えなくなってしまっているが、人々の暮らしは勇気ある起業家たちの経営努力によって成立していると言っていい。

 時代は進み、本来なら起業家が自ら長期間経験して修得しなければならない業界のノウハウも、それを提供することを生業にしている会社があることが分かった。達彦は大学の福祉学科の教員に質問したり、図書館で関連書籍を調べたりして、障害者の就労支援事業について勉強したが、内容は福祉起業支援社のサイトに記載してある通りあった。みんなそういう会社の助けを借りて起業しているのだ。就労支援事業は利用した障害者の人数に応じて行政から報酬が支払われるから、製造業や販売業と違って収入は安定している。問題は資金である。三百万円は達彦にとっては大金であった。親戚を頼りたくはなかった。頼っても理由を言えば一笑に付され、非正規でも派遣でもいいから真面目に働けと言われるのは目に見えていた。銀行は有力な保証人か価値のある担保でもない限り、学生の達彦に融資してくれるはずがない。達彦自身がマンションを担保にする勇気がないのに、保証人になってくれる人などいるはずがない。

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