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防犯のシナリオ(12)
令和01年06月10日
三百万…三百万…。
達彦が学生通りにある喫茶店に入り、バッグから図書室で借りた本を取り出したとき、壁のテレビのワイドショーの話題が変った。
「一人暮らしの認知症の高齢者が孤独死しているのが発見されました。八十五歳の男性で、街に出かけてゴミを集めて来るのが日課でしたが、ここ数日姿を見かけないのを不審に思った近所の住人からの通報で、警察と市の関係者が家の中に入り、死亡を確認しました。高齢者の家はゴミ屋敷で、ゴミの中から四千万円の現金が発見されました。男性には身寄りがなく、現金は最終的には国庫に帰属することになるということです。いやぁ、それにしても四千万円とは驚きですね」
「住んでいる家をゴミ屋敷にしてしまうような人は、警戒心が強いというか、他人を信頼しない人が多いですから、きっと若い頃からこつこつ貯えた現金を、銀行に預けないで家の中に隠していたのでしょう。認知症になって現金の存在すら忘れてしまったのですね」
「これ、発見されたから良かったようなものの、ゴミにまぎれて焼却されてしまう可能性だってある訳でしょう?」
「通貨というものは単なる紙切れですが、労働を交換する媒体ですからね、四千万円と言えば、時給千円の人が四万時間働いた対価とも言えます。一日八時間のフルタイム労働として五千日ですよ。一年三百六十五日を休まずに働いたとして十三年余りになります。四千万円は、流通していれば、それだけの労働を生む効用があるということになります」
「わが国は超高齢社会を迎えて認知症の高齢者が大変な勢いで増加しています。しかも単身者が多いとなると、今回の様な例がたくさんあるのでしょうね」
「調査のしようがありませんから実態は分かりませんが、タンス貯金を忘れてしまう認知症高齢者は大勢いるでしょう。経済的には損失です。銀行に預けてくれれば流通するのですが…」
「年を取ると銀行に行くのも、窓口の手続きも大変になりますからね。手元に現金を置いておきたい気持ちも分かります」
「ま、長い間のゴミ屋敷問題が、本人死亡という形で決着が着いたというのも複雑な気持ちです。亡くなったご本人は、これからの認知症高齢者の問題を提起してくれたと言えるかも知れません」
達彦は運ばれたコーヒー飲むのを忘れ、本も読まないで、テレビの画面を見つめていた。
それから二日後、達彦は財布に郵便局のキャッシュカードとクレジットカードと国民健康保険証と運転免許証を入れて、わざわざ日曜日の混雑する時間帯を選んで、駅前のショッピングモールに出かけた。もう迷ってはいなかった。秀夫の存在が原因で就職試験にことごとく落ちた。いっそ起業をしようと決意したら三百万円が必要だった。秀夫が拾って来たケア会議の資料には、かろうじて一人暮らしが可能な認知症高齢者の個人情報が詳細に記載されていた。そんな高齢者を対象にした完璧な詐欺の手口を、中山はシナリオに書いたが、シナリオそのものは監督から酷評されて、中山は演劇部を辞めた。中山の考案した詐欺を実行しようとすると必要になる高度な演技力に、達彦は自信があった。この時期にこれだけの偶然が重なったのには意味があるに違いないと達彦は思った。流通してこそ効用を生む通貨を、認知症高齢者が漫然と保有していることは国家の損失なのだという、ワイドショーのコメンテイターの言葉が、これから達彦が手を染めようとしている犯罪を正当化していた。調べて分かったことだったが、カードを不正使用された被害者のための法律が成立し、損失は基本的に満額が保障されることになっていた。それが達彦にとっては何よりの救いだった。詐欺に成功しても実質的に高齢者には迷惑が及ばない。
達彦は混雑するモールのトイレの個室を利用してから、メンズショップを中心にゆっくりと見て回った。その姿は複数の監視カメラに映っているに違いない。やがてジーンズの店で商品を選んでレジに並び、財布がないことに狼狽して、店員を相手にここでもアリバイを残した。血相を変えてトイレに走る様子も監視カメラに残っている。個室を覗いて財布を確かめるふりをすると、近くの店員に交番の場所を聞いた。別の場所でも道を尋ねた。全ては計画通りだった。交番で遺失物の届を出すときだけは、さすがの達彦も緊張したが、却ってそれが警察官の同情を買った。カード会社への電話も、郵便局への連絡も、交番の警察官の指示に従った。その方が印象に残るというしたたかな計算だった。月曜日に免許証の再交付を受けた。国民健康保険証の紛失届も市役所に出した。ここにも動かし難い証拠が残る。二週間ほどして再発行のカードが自宅に届けば、手元には使用不能の処理を施した郵便局のキャッシュカードが残る。達彦はじっとそのときを待った。