防犯のシナリオ(13)

令和01年06月12日

 座布団に座った村井泰三が手元に伸びたスイッチを入れると、仏壇の暗がりで左右の灯明が点いた。淡いオレンジの光は、炎の形をしてはいるものの、匂いも揺らぎもなくて、やっぱり灯明は蝋燭でなければならないと泰三は思う。しかし改めて蝋燭を買って来ようとは思わない…と言うよりも、仏壇の前から立ち上がったとたんに、泰三の脳は、蝋燭がいいと思ったことも覚えてはいられなかった。

「お父ちゃん、最近物忘れがひどいから、お灯明は電気に替えるよ。お母ちゃんの仏壇から火を出して、お父ちゃんが焼け死んだら洒落にならないからね」

 美沙子の三周忌に、東京から帰省した典子夫婦が、わざわざ取り付けてくれた灯明だったが、もちろん泰三はそのこともすっかり忘れている。ただ毎朝こうして無機質な灯りの前で手を合わせる度に、灯明は仏壇内の照明が目的ではないのだと泰三は思う。燃えて命を削る蝋燭に人生のはかなさを重ねて、人は故人を偲ぶのである。

 美佐子の遺影は、蝋燭でも電球でも構わないよという顔をして微笑んでいる。還暦を過ぎてからは、酒を飲むな、煙草を吸うな、少しは運動をせよと、泰三の健康を喧しく気遣った美紗子が先に逝った。いつもなら弁慶という名の老犬の散歩を済ませ、朝食の支度をしているはずの妻の姿が台所にないことに胸騒ぎを覚えた泰三が部屋を開けると、美紗子は布団の中で冷たくなっていた。苦しんだ様子がなかったのが救いだったが、いびきがうるさいという美紗子の言葉に腹を立て、自分の布団を二階に移したことを泰三は後悔した。年を取ったら夫婦は同じ部屋で寝るべきだった。隣で異変に気づいて救急車を呼べば、美紗子は助かったかも知れないのだ。

「五つも年上のおれが残されるなんてなあ…」

 火葬場の煙突から立ち上る黒々とした煙を見上げながら泰三がつぶやくと、

「口を開けば不摂生なお父ちゃんのことを心配してたから、お母ちゃん、きっとお父ちゃんの身代わりになったのよ」

 泣きはらした目でそう言う一人娘の典子の袖を、夫の雄一がたしなめるように引いた。そんな大切な人生の場面さえ泰三の記憶の網の目から容赦なくこぼれ落ちてしまう。それが認知症の進行であることに泰三自身は気が付いていなかった。

 電気ポットの湯が沸いた。月に一度、典子から送られてくる三十食分のインスタント味噌汁の中から、その日の具を選ぶのが泰三のささやかな楽しみだった。

「今日はしめじにするか」

 泰三が椀に味噌をしぼり、その上に乾燥した具を乗せて湯を注ぐと、食欲をそそるいい匂いが広がった。かきまぜているうちに電子レンジの中のパックのご飯が出来上がった。ふりかけや、つくだ煮のたぐいをおかずに、泰三は簡単な朝食をとった。昼と夜は宅配の給食が届く。全ては昨年の正月に帰省した典子が手配して、その代わりガスレンジは撤去された。

 庭に目をやると、青々と葉を茂らせた柿の木の根元に古ぼけた犬小屋がある。そう言えば、うちに犬が居たような気がする…。昨年死んだ弁慶のことも、泰三の記憶から消えかけていた。

 と、そのとき固定電話が鳴った。

「はい、村井です」

「村井泰三さんですね、いつもお世話になっています。城西郵便局ですが…」

 最近ATMで大きな金額を引き出そうとなさいましたか?と聞かれても泰三には記憶がない。

「いや…そんなことは…」

「やっぱりそうですか。いえ、実はですね、私どもとは別の郵便局で、村井さんの口座から五十万円を引き出そうとする不審な動きを、新しく導入したセキュリティシステムが察知しましてね、危うく止めましたが、村井さんのキャッシュカードが偽造されている可能性があります。規定通り通報しておきましたので、間もなく警察からお尋ねがあるかと思いますが、そのときは犯罪防止のために、快くご協力をお願いしたいと思いまして…」

「…ということは、助けて頂いたんですね、有難うございます。私は月初めに生活費を下ろしに参りますが、郵便局は一か所ですし、それ以外にはカードも使いません」

「村井さんの場合、そのおかげでシステムがチェックしました。日ごろから複数の郵便局をご利用されていると、何ともなりません」

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