豪雨(7)

令和05年02月02日

 手のひらを反すようにという言葉があるが、高岡の二度目の電話に出た塩崎福祉課長の態度は別人のようだった。

「はい…町長から伺っています。ええ…二十一日でございますね。承知しています。その方向で準備をと考えております。そのときは正式に派遣要請という形でご連絡申し上げます。いえ、こちらこそどうぞよろしくお願いします」

 声のトーンまで変わっている。

「心のケアって、あなた、何考えているんですか!支援チームがあるのなら、いますぐ派遣して、畳を上げたり家財道具を処分する手伝いをして頂きたいものですよ」

 と、語気を荒げた同じ人間が、高岡の希望通りの日程で派遣の受け入れを準備すると言う。町長の意向でその日のうちに塩崎の態度が百八十度変化した。高岡にとっては好都合だが、何考えてるんですか!という反論の方が、感情がこもっていた分、塩崎の本音であるに違いない。高岡の中に、そんな福祉課長を人として信頼できない気持ちが芽生えていた。たいていの役人は自分でものが決められないと言った赤塚の言葉が蘇ったが、同時に、現に君だって私に言われて心のケアチームの派遣を計画し、私に言われて現地に電話をかけている、そうだろう?という赤塚の声が高岡の心に突き刺さっていた。

 町が二十一日の訪問を承諾したということを赤塚に報告すると、

「では高岡くん、記者発表の原稿を頼むよ」

 勝ち誇ったように赤塚が言った。

 役人か…。

 塩崎の豹変ぶりを見たせいか、かつてない虚しさが高岡の胸に広がっている。初めて本庁の係長として勤務して、上の評価ばかりを気にしている管理職の思考回路を直接見聞きする機会が増えたせいに違いなかった。

 振り返れば、前任者の突然の退職に伴って、新年度の予算も計画も動き出した七月という中途半端な時期に、県立病院の医療相談室から本庁の保健医療課の精神保健福祉係長を命じられて赴任した高岡に、

「いいかね、本庁には様々な団体から補助金の陳情が来る。君の昼間の仕事はそれを別室で丁寧に聞いて、前向きに検討させてもらいますと返事をして穏やかに帰ってもらうことだからね」

 と言い渡したのも赤塚課長補佐だった。

「陳情する方は真剣だから、丁寧に聞くとなると長時間に及ぶと考えた方がいい。本来の仕事は勤務時間外に行うという覚悟を持って欲しい。だから県庁舎は不夜城と呼ばれている」

「…前向きということは、必要性に関する資料を作成して翌年度の予算要求に挙げるということですね?」

「いやいや、とんでもない。補助の可能性があるなどとは絶対相手に思わせてはいけないよ、録音してるかも知れないからね」

「しかし前向きということは…」

「永田町言語というのがあるように、行政の分野で前向きということは一応誠意を持って聞いて、おっしゃることは理解しましたという意味でしかないんだよ。いいかね?ここはしっかりわきまえていて欲しい」

 赤塚は子どもに言い聞かせるような口調で続けた。

「県の予算というものは全体の枠が決まっている。県民の血税だからね。財政課の厳しい査定を乗り越えて、どうしても必要なものだけに予算がついている…ということはだよ、どこかの団体に補助金を交付しようとすると、どこかの団体の補助金を削らなくてはならないということだ。分かるだろう?」

「あ、はあ…」

「削られる団体は激しく抗議するよね」

「あ…はい」

「議員に訴えたり、マスコミに訴えたり、プラカードを掲げて押しかけたり…そんなことをされたら高岡くん、課長の汚点になる」

 課員全員で課長を守り盛り立てるのがわれわれの職務なんだと高岡に言いながら、長澤課長にちらちらと視線を送る赤塚補佐の態度は、病院にはないものだった。病院では誰もが病気に苦しむ患者とその家族に関心を寄せていた。しかし赤塚の関心は決して県民には向いていない。今回だって被災地に心のケアを必要とする住民がいるからチームの派遣を発想したのではない。課長から高い評価を得ることが動機になっている。課長は部長や知事の評価を気にし、知事は議会と有権者の人気を気にしている。本庁組織の持つ独特の文化と、その歯車に組み込まれてしまった自覚が高岡の虚しさの原因だった。

 同じ虚しさを被災地の役場で塩崎課長も持て余していた。

「課長、例の心を病んだ住民の役、とりあえず山野辺の爺さんが承知してくれました!」

 就業時間間際に、スクープをものにした新聞記者のような勢いで近藤福祉係長が報告に来た。

「え!もう手配してくれたのか、さすが仕事が早いなあ。山野辺さんっつうのは、欣二さんだろう?今年から長寿会の副会長の」

「そうです。町の駐在所の元巡査です。春の役員改選で副会長に選ばれて、爺さん、えらく張り切ってるんです」

「年はいくつだった?欣二さん」

「長寿会では若手ですよ。確か喜寿だと言ってましたから、七十七歳ですか」

「それで若手なんだ…で、どんなふうに頼んでくれた?」

「会って正直に話しましたよ。欣二さんは、うちの息子の嫁の妹の嫁ぎ先の本屋筋だから、言えば、親戚ですからね。町長の役に立てるのならって、そりゃあ協力的で、帰りには婆さんの漬けた漬物をビニール袋に入れて持たせてくれました。どうですか課長も半分」

「いや、うちも婆さんが漬けてるから、漬物は遠慮しておくよ。それより今回の仕事は、ある意味、非常にデリケートな内容だから、欣二さんには当日の役割をきちんと理解してもらったんだろうね?」

「そこは課長、ぬかりはありませんよ。県から医者や保健師が来て、どうですか?って体調を聞くから、水の音がすると不安になりますとか何とか、適当に答えればいい。眠れますか?と聞かれたら、なかなか寝付かれないと言えば、眠剤が出るけれど、そんなもなあ飲まなくていいと伝えたら、よし、それならおれがあと二、三人は心当たりを探してやると請け合ってくれました」

「そりゃあ有難いけど、大丈夫かい?うるさい時代だからね、役場が仕組んだ芝居だなんて話が広がったら大変なスキャンダルになる。町長の顔だって丸つぶれだ」

「そこは念を押しておきました。欣二さんは元警察官だから、秘密に関しては北の工作員レベルですよ」

「なら心配はいらないね。よし、メンバーが決まったら一度集まってもらって説明しなければならないな。当日うっかりしたことを言われては取り返しがつかない」

 任せて下さいという近藤係長のはしゃぎぶりを見ていると、塩崎はやりきれない気持ちになる。いくら町長の命令とは言え、まだ被災五日目である。こんなことをしている場合ではない。何やってるんだ、おれは…と思う一方で、チームの受け入れは時期尚早だと町長に進言する勇気はとてもなかった。町長には町長の立場がある。県の顔を立てるからこそ、県も町長の要望に耳を貸す。引いてはそれが住民全体の利益になるのだとしたら、心を病んだ芝居をする年寄りたちこそ町政に貢献しているのだ。虚しさをねじ伏せて、塩崎福祉課長は、各町内からばらばらと上がって来る被災状況報告の点検作業に戻った。

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