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豪雨(8)
令和05年02月09日
山野辺欣二が選んだ男女二人を合わせて、心のケアの対象者となった三人が会議室に集まったのは、二日後の九月十八日の午後だった。
「ええ…本日は被災七日目というまだまだ大変な時期にもかかわらず、お集まり頂いて誠に申し訳ありません」
塩崎課長が慇懃に挨拶をしようとすると、
「今回のことは口外できねえ、いわば町の重要機密に属することでありますから、人選を引き受けたものの、安心して依頼できたのは結局このお二人だけでありました」
敬礼こそしないまでも、山野辺欣二が元警察官らしく背筋を伸ばして、おれが選んでやったんだぞと言わんばかりに誇らしい顔で二人を見た。
「お二人の事は福祉課としてもよく存じ上げております」
塩崎課長が頭を下げると、
「民生委員の水沢春枝です。私たちの役割はざっと山野辺さんから聞いて知っています。幸い我が家は災害を免れましたので、これくらいのことで町のお役に立てればと思ってお引き受けしました。課長さんもご存じのように、私は一人で暮らしております。今回のことは東京の子どもたちにも一切しゃべっておりません。私の一存で承諾しましたのでご安心ください」
秘密厳守について元警察官から厳しく言い渡されているらしく、たかが心のケアチームに不安や不眠を訴える役割にしては、ひどく緊張した面持ちで答えた。
「申し遅れました。私も塩崎課長には大変お世話になっています長寿会の会計係の滝本元三郎です。私の家も少し高台にありますので、水は浸かりませんでした。実は私、町長の父親とは小学校から高校までの同級生でして、同級生の息子の顔を立てる重要な役割だと欣二さんから伺っては断れません。私は妻に先立たれて、話し相手といえば犬のムサシだけですから、誰にもしゃべる気遣いはありません」
「皆さん、心強いお言葉有難うございます。ここからは私、福祉係長の近藤からご説明申し上げます」
近藤が進行を引き継いだ。
こういう場面になると近藤の表情は妙に生き生きしている。
「ええ…県の希望で、心のケアチームの訪問は明後日、つまり二十一日になる予定です。県庁からの距離を考えると、てっきり午後の日程だと思っておりましたが、午前十時にはこちらに到着して手際よく済ませたい意向です。これしきの災害で心を病んだ住民がいるとは思いませんが、山野辺さんからお聞き及びの通り、チームの派遣を町長が引き受けてしまった以上、該当者なしとして無駄足を踏ませるわけにも参りません。そこで、くれぐれも行政からの要請であることは伏せて、お三方には訪問するチームのメンバーに被災者としての不安を訴えて欲しいと思っています」
「聞いています。水の音を聞くと恐怖が蘇るとか、あの日のことを思い出すと寝付かれないと言えばいいのですね?」
「…で、眠剤が出ても飲まなければいい」
「大変よく理解していらっしゃるので安心です。そしてくれぐれも…」
「これが芝居だということは内密にでしょ?もう…耳にタコができますよ」
「失礼しました。ま、手際よくとおっしゃっていますから、チームも、そんなに長居はしないとは思いますが、面倒な話になりそうなときは、ちょっと疲れましたのでこの当たりで…と口ごもれば切り上げると思います」
「分かりました」
「うまくやりますので、お任せください」
水沢春枝も滝本元三郎も万事飲み込んだという顔で頷いた。
「それでは受け入れ態勢が整ったということで正式に県にチームの派遣を要請します」
三人を見送った塩崎課長は、苦々しさを意識の外へ追いやって受話器を取り上げた。
K町から正式に心のケアチームの派遣要請があった旨の報告を高岡精神保健福祉係長から受けた赤塚課長補佐は、
「予定通り二十一日派遣ということで記者発表してよろしいですね?」
したり顔で長澤保健医療道課長の指示を仰いだ。赤塚はどんなときも最終決定権は課長にあるという線は踏み外さない。それが責任を取らなくて済む最良の方法であると老練公務員は心得ている。
「もちろん補佐のお考えなら私に異論はありません」
課長も赤塚補佐のプライドにさりげなく気を遣っている。
被災地からの要請で、県が二十一日に心のケアチーム第一陣を派遣することを決定したという簡潔な文章を高岡が記者クラブに配布したのが十九日の午後だった。すると翌朝にはN新聞の記者から電話が入った。地方紙とはいえ、このあたりではエリアも部数も全国紙に劣らない影響力を持っている。
「もしもし、私、N新聞の記者で立花と申します。昨日発表された被災地への心のケアチームの派遣につきまして、一つご質問があるのですが…」
「はい、精神保健福祉係長の、私、高岡が承ります」
「明日は被災からまだ十日目ですが、どのような行動計画で現地の心のケアを行う予定なのかお聞かせいただけますか?」
「行動計画ですか…町の受け入れ態勢に沿ってケアを行いますから、早速具体的なことを役場に確認して折り返します」
高岡が確認すると、塩崎福祉課長の返答はしごく当然の内容だった。
「こんなとき役場に出向いて相談しろと言われても住民は困ってしまいますから、私どもがチームをご案内して該当する住民の家を訪問して頂こうと思っています」
「訪問予定者は何人になりますか?」
「いまのところ三人です。こちらへ十時に到着されれば、町長がご挨拶をして、私どもと簡単な打ち合わせを済ませて頂いて…そうですね、お昼を挟むか挟まないかくらいの時間には終了するのではないかと思っています」
あ、該当者は全員が高齢者ですという塩崎の返答を、高岡はそのまま立花記者に伝えて、早速明日の派遣の準備にとりかかった。県庁で必要な機材を積み、医師と保健師をそれぞれの自宅で拾って現地に向かう予定だが、朝の通勤ラッシュ帯に市街地を横切ることを考えると、早朝六時には出発しなければならない。
山野辺欣二のスマホに水沢春枝から電話がかかって来たのは、ちょうど高岡が公用車に乗って県庁を出発した、午前六時頃のことだった。
「どうした?春枝さん、こんな朝っぱらから」
「どうしたじゃないよ、欣二さん」
今朝のN新聞を読んだかと春枝は言う。まだ読んでいないと答える欣二に、
「なら今から読むから聞いててな」