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豪雨(9)
令和05年02月15日
春枝は幾分声を落として記事を読み始めた。
『県は本日二十一日、豪雨災害の被災地であるK町に心のケアチームを派遣する。第一陣は災害で心を病んだ三人の高齢者宅を訪問してケアにあたる予定』
「心を病んだ高齢者って、私たちのことだよね」
「ちょっと待ってろ、新聞取って来る」
同じ記事を読んだ欣二は言葉を失った。
滝本元三郎に電話をすると、元三郎は春枝以上にうろたえていた。
「そのことよ、ムサシの散歩に出かけたら、散歩仲間の麻子さんにこう言われたんさ。新聞読んだかい?今度の災害で心を病んだ年寄りがこの町に三人もいるんだと。県からわざわざチームが訪問して心のケアをするっつうけど、誰だろな?そんな意気地のない年寄りは…」
散歩を切り上げて急いで記事を確かめに戻る元三郎の背中に麻子が追い打ちをかけた。
「なぁに、狭い町やでの、誰かってことはすぐに分かるさ。県の車が停まったところが心を病んだ年寄りの家っつうことになっからなあ」
元警察官の山野辺欣二と、長寿会の会計係の滝本元三郎と、民生委員をしている水沢春枝の三人が揃って心を病んでいるなどという話が広がれば、とんでもないことになる。田舎の町の住人には個人情報などという気の利いたプライバシーはない。誰それには、どこそこから嫁が来て、長男がどこへ就職し、妹は近々嫁に行くらしいとか、死んだ親の遺産を巡って利害が対立し、口も利かなくなってしまった兄弟を仲裁するふりをして、結局、叔父が財産をいいようにしてしまったなどという真偽不明の噂話が、一人一人の住民にまとわりついている。
三人は難しい顔をして、一旦、山野辺欣二の家に集まった。
「おれの話し相手はムサシだけなのは嘘ではないけんど、葬式ともなれば座敷に入りきれないくらいの参列者はいるからな。気の毒に、あの雨んとき、故人は心を病んでたんだってなあ…なんて言われるのは不本意だ」
滝本元三郎はそれが気がかりでたまらない。
「おれだって、現役時代は所長から二回も表彰された警察官だぞ。それがこれしきの災害で心を病む人間だと思われるのは面白くねえ」
山野辺欣二は腹を立てている。
「これしきの災害ったって、欣二さん、私たちは水害に遭ってもいないんだよ。私は東京の孫娘が二十八歳で、どうやらいい人がいるみたいなんだけど、何かのはずみで田舎の婆ちゃんが精神を病んでるなんて相手の耳にでも入ろうものなら、困ったことになりかねない」
「福祉課に騙されて、町のためだ、町長のためだって、芝居をさせられるおれたち三人だけが、みんなから白い目で見られるのは、どう考えても割に合わねえぞ」
もう時間は八時になろうとしている。
十時にはチームが到着する。
欣二、春枝、元三郎の三人は八時半の始業時間に合わせて役場に向かった…が、役場では既に福祉課を中心にちょっとした騒ぎになっていた。
「福祉課長、今朝の新聞に、県が心を病んだお年寄り三人を訪問してケアすると書いてありましたが、こんな狭い町で、あんなふうに書かれて、その三人は大丈夫ですか?」
住民課長が心配そうに福祉課長の落ち度を指摘した。
「いや、あれは県が勝手に載せたんで、町はあずかり知らんことです」
「とにかく町長の耳には入れておいた方がいいと思いますよ」
と言われるまでもなく、既に塩崎は朝一番に町長から電話があって、こうして町長の出勤を待っている。
「あ、町長、おはようございます」
エレベーターから出て来る町長に最敬礼する塩崎に、
「おはようじゃないよ、塩崎くん、どういうことだね、今朝の新聞は。記事を読んだ何人かの議員や住民から抗議の電話があったよ。三人の高齢者が心を病んでいるという表現は問題じゃないかってね」
町長は不快を露わにして町長室に入り、
「いったい誰なんだ、その三人の高齢者というのは…」
木調の大きなデスクの前で立ったまま塩崎を問い詰めた。
「山野辺欣二さんと、滝本元三郎さんと、水沢春枝さんの三人です。口が堅いことを条件に対象になってもらいました。今のところ町に心のケアが必要な住民がいるという情報はありませんし、かと言って、チームに手ぶらで帰って頂いては町長に申し訳がありません。考えた末の苦肉の判断です」
「苦肉の判断なんかしなくてもいいんだよ。該当する住民がいなければ派遣は断ればいいじゃないか。こんなに急いで要請する理由でもあるのかね」
「え?それは町長がよろしく頼むとおっしゃるから…」
「よろしく頼む!そうか、そこで間違えたんだな?確かに私はよろしく頼むとは言ったよ。だけどそれは県の言いなりに派遣を要請しろと言ったのではない。時期や方法については現場の責任でよろしく話し合ってくれという意味だよ」
「よろしくとは、そういう意味でしたか…いえ、私はてっきり町長が派遣を望んでいらっしゃると理解しまして…」
塩崎の額に汗が滲んでいる…と、そのとき、
「あ…あの、山野辺さんたちが血相を変えてもうすぐここへいらっしゃいますが…」
ドアを開けて報告する近藤係長の後ろでエレベーターが停まる音がして、欣二と元三郎と春枝の三人が近藤を押しのけるように町長室になだれ込んだ。
「塩崎課長!この話、おれは降りたよ」
これまで後ろ指差されずに生きて来て、この年でみんなから心の弱い人間だと思われるのは面白くないと言う元三郎の勢いに飲み込まれるように、
「私も辞退します。秘密だ、極秘だと言いながら、あんなふうに新聞に載るなんて聞いていませんでした」
いつもは物静かな春枝も珍しく声が興奮している。
「二人を選んだ手前、おれまで辞退するのは心苦しいけんど、人選した者の責任として二人にこの役はさせられねえ。この際、なかったことにしてもらいたい!」
欣二の顔にも固い決意が現れていた。
町長は困り切った顔で腕時計に目をやると、
「もう時間がない…。とにかく塩崎課長、この件は君の責任で、一旦、白紙に戻してくれたまえ」
私は所用で終日不在にするからね、と言い残して足早に町長室を出て行った。