豪雨(10)

令和05年02月22日

 そもそもが無謀な計画だった。依頼された当事者からきっぱりと拒否された上に、町長から白紙に戻せという命令が下った以上、塩崎福祉課長に三人を引き留める権限はなかった。

 山野辺欣二、滝本元次郎、水沢春枝の三人を帰宅させ、福祉課に戻った塩崎課長は途方に暮れていた。やがて到着するケアチームには何と言って弁明すればいいのだろう。住民のケアを県にだけ任せる訳にも行かず、町の保健センターの二人の保健師にも同行を依頼して既に別室で待機させている。中止となれば彼女たちへの説明も必要になる。すると、そんな塩崎の胸中を察して、近藤福祉係長が顔を寄せ、

「悪いのは県ですからね」

 と言った。途方に暮れる塩崎とは対照的に、近藤の目は輝いている。

「え?」

「我々は新聞記者とは何のやり取りもしていないのですからね、記事は県からの情報に基づいて書かれたとしか思えません」

「しかし、三人訪問する予定だと伝えたのは私だよ」

「いえ、課長が県に行動計画を伝えるのは当然の職務ですよ。新聞に発表するのとは次元が違います」

「…」

「こんな田舎町で心を病んだ三人の高齢者がいるなどと新聞に書かれたら、それがどんな波紋を呼ぶか、県は想像すべきだったのですよ」

「それはそうだが…」

「チームが到着したら、こちらから中止を提案してはいけません。なぜ不用意な記事を載せたのかを厳しく糾弾するのです。 我々が糾弾すれば、県は謝罪する立場になります。心を病んだ年寄りとは誰だと騒がれて本人たちは動揺しています。ものものしく訪問すれば個人が特定されてしまいますが、どうしますか?と詰め寄れば、県の側から中止を申し出るでしょう。そうなれば町は県に一つ貸しができます」

 近藤係長は三人の芝居を思いついたときと同じ意欲的な顔をしている。どうやら近藤は窮地を打開する知恵を出すことに無類の喜びを感じるタイプのようだ。しかし自分はそういうタイプではないと塩崎は思った。今回の一連の経緯に塩崎は辟易している。福祉課長という立場で県の意向に忖度し、町長の立場を斟酌して精一杯動いてはいるが、今回のことで町民のために仕事をしたと実感できるのは一度しかない。

「支援チームがあるのなら、いますぐ派遣して、畳を上げたり家財道具を処分する手伝いをして頂きたいものですよ!」

 県からの電話に声を荒げたあの瞬間を除けば、あとはどの場面を振り返ってみても、自己保身と責任回避が目的の行動ばかりだった。しかし、自分はこの件を白紙に戻す権限と責任を町長から与えられている。さてどう対応したらいいか…と思いを巡らせた塩崎の発想が飛躍した。町長が自分に一任したように、自分は福祉係長に一任すればいいではないか。

「近藤くん」

 県のチームへの対応は君に一任するよと命じられた近藤係長は、これまでの自分の働きが評価された結果だと受け止めたのだろう。

「お任せください!」

 椅子から立ち上がって張り切って答えた。


 予想通り通勤時間帯の市街地を抜けるのに手間取って、高岡が運転する県の白い公用車がK町の役場の駐車場に着いたのは二十一日のやがて十一時になるという時間だった。

「係長、長時間の運転お疲れ様でした」

 精神保健福祉センターの中堅保健師が、バイタル測定機器の入った黒いバッグを手に助手席から降りた。

「いやあ、高速を降りてからが長かったねえ」

 同じく精神保健福祉センターの精神科医が後部座席から降りて、こりゃあエコノミー症候群だと言いながら、とんとんと腰を叩いた。

「到着が遅れることは連絡を入れておきましたが、一時間近い遅刻です」

 と急ぎ足の三人を役場の入り口で待ち構えていて、

「心のケアチームの皆さんですね?私、福祉係長の近藤と申します」

 防災ジャンパー姿の小柄な職員が会釈をした。なぜか手には新聞を持ち、表情がひどく強張っている。申し遅れましたとばかり名刺を差し出して挨拶をしようとする三人には取り合わないで近藤が先に立って歩きだした。出した名刺をポケットにしまいながら、三人はつき従うようにしてエレベーターに乗り込んだ。案内された会議室の長机には、スーツ姿の男性職員と並んで二人の女性職員が座っていた。机の前には間隔を空けて、パイプ椅子が三つ並んでいる。チームの三人が促されるままパイプ椅子に座ると、裁判官の前に引き出された被告のような格好になった。

「福祉課長の塩崎です」

 と名乗るスーツの男性に続いて町の保健師二人が名字だけ言って沈黙した。異様な雰囲気に戸惑いながら、

「あの…本日は要請を頂きまして…」

 高岡の発言を遮って、

「いったい、どういうおつもりなのですか?」

 近藤が高岡の前に進み出て聞いた。

「え?」

「今朝のN新聞の記事ですよ。小さな町です。心を病んだ三人の高齢者が県から訪問ケアを受けるなどと書かれたらどんなことになるか想像をされなかったのですか?」

「私ども、出発が早かったものですから、新聞はまだ…」

「読んでないのですか!」

 近藤は語気を荒げて新聞を突き出し、

「ほら、読んでみてください。ひっそりと訪問して頂こうと考えていたのに、これでは台無しです。三人の高齢者は、今では災害のトラウマより、心を病んでいるという噂さが町内に広がることの方が心配で不安を訴えています」

 高岡は近藤が差し出した新聞を読んであとの二人に回したが、三人共反論ができなかった。

「…」

 我慢比べのような沈黙の末、

「どうしましょう?」

 と近藤係長が言うより先に、

「本日の訪問は中止しましょう」

 高岡はそう言った。

 この状況ではそう言わざるを得なかった。

「記者から尋ねられるまま三人の高齢者を訪問する予定であることを答えてしまった私が迂闊でした。お詫びの申し上げようもありません。本日はこのまま立ち帰りますので、また必要がありましたらご連絡ください」

 高岡が立ち上がって深々と頭を下げると、あとの二人も反射的に起立して頭を下げた。

「県もこうおっしゃっていますので、ここは一つ県のご意向を尊重して…中止ということでよろしいですね、課長」

 近藤に促されて塩崎課長以下、二人の保健師も立ち上がり、心のケアチームの第一陣が会議室を出て行くのを見送った。

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