豪雨(11)

令和05年02月25日

 帰りの車中は重苦しい空気に包まれていた。

「訪問は正式に町から要請された県の仕事ですよね?なのにこんな形で中止になるなんて、あの程度の記事が、田舎ではこれほどの影響力を持つのですか?」

 保健師は、第一線で活躍している公務員三人が、何の仕事もしないで、いま来た道をこうして虚しく引き返している事態が納得できないでいる。

「田舎の社会は人間関係を中心に成立しているからねえ…。心が弱いと思われることは、体が弱いのとは比較にならないくらい不利益に働くんだろうね」

 人との距離が近い分、お互いに助け合う一方で、監視や偏見や排除の力も都市社会の比じゃないと思うよ、と精神科医が解説を始めたが、ハンドルを握る高岡の岩のような沈黙に圧倒されて口をつぐんだ。

 高岡は考えていた。自分がどの時点でどう振舞えば、今回の事態を回避できたのだろう。三人の高齢者を訪問するという行動計画を、問われるままに新聞記者に伝えたことが配慮に欠けていたのだろうか。それとも責められるべきは、ああいう記事を書いた新聞記者なのだろうか。いずれにしても、町長の指示を受けた福祉課長があれだけ短期間で選出したということは、三人の高齢者には顕著な不安症状があったに違いないが、こんな形で中止にしたまま放置していいとは思えない。時期を見てこちらから様子を聞くべきだろうか、それとも町から再度依頼が来るのを待つべきだろうか。高岡の運転する車は県庁を目指していたが、浮かんでは消える考えには目的地がなかった。

 通勤時間帯の渋滞がないだけで、行きは四時間を超えた道のりが、帰りは三時間余りで県庁に着いた。

「ただ今戻りました。実は…」

 高岡が報告しようとすると、

「いやぁご苦労だったねえ、高岡くん。きみのおかげで議会は質問も答弁も実にスムーズに終わったよ。今頃は第一陣が該当者の家を訪問しているはずですと答えるときの知事の得意そうな顔は、高岡くんにも見せたかったですよねえ、課長」

 赤塚は上機嫌で長澤課長を見た。

 長澤も満足そうに微笑んでいる。

「実はそのことですが…」

 高岡は訪問中止の顛末を正直に報告した。

「え?何?どういうことだね」

 赤塚はにわかに理解ができないらしい。

「ですから、新聞にある心を病んだ三人の高齢者とはいったい誰なんだということが被災地で大変な関心を呼びまして、我々の訪問によって個人が特定されることを三人の高齢者たちが非常に怖れ始めたのです」

「そ、そんなくだらない理由で君は独断で訪問を中止して引き返して来たというのかね!」

 大声と同時に赤塚の顔が険しい表情に変化した。

 課員全員の視線が集まった。

 長澤が第三者のような顔で書類に目を落とした。

「県が記者発表をし、知事が議会で答弁までしたことをだよ、現地の役場で門前払いされたってことになる。そういう不手際のないように準備をするのが役場の仕事であり、君の役割じゃないのかね」

 赤塚は自分の言葉でさらに興奮してゆく。

「三人の県の職員が朝早くからのこのこ出かけて行って、この上ない屈辱を受けたんだよ、分かるかね!」

「…」

「しかも君は、こんな大切なことを相談もせずに独断で中止して、すごすごと帰って来たんだ。これじゃ子どもの使いじゃないかね!」

 子どもの使い…という言葉で、それまで高岡を組織につないでいた太いロープが切れた。お言葉ですが…と高岡は赤塚を睨み付けた、

「それではあの場で補佐に電話して指示を仰いだら、役場の意向なんか構うことはないから訪問しろと言いますか?」

 赤塚に負けないくらい大きな声でそう言って視線を動かさなかった。

「そ…そうは言わないが…」

 赤塚は二の句がつけないまま唇を震わせている。

「だったら同じじゃないですか!」


 それ以来、高岡は赤塚と口を利かないまま三日が経った。書類を赤塚の机に無言で置くと、高岡が席を外した隙に必要な指示を書いた付箋を貼って戻されていた。そんな雰囲気を和らげようと長澤課長がことさら赤塚に世間話を振るが、会話はぎこちなく弾まなかった。精神保健福祉係の四人の係員も、係長と課長補佐の確執の狭間で軽口は叩けなかった。その重苦しさが保健医療課全体を支配していた。

 高岡はあれっきりになっている三人の高齢者が気がかりだった。訪問を中止したものの、眠れない夜に苦しんでいるのではないだろうか。まずは町に三人の様子を聞いてみよう。それは訪問を中止した自分の責任である。高岡がデスクの受話器を取り上げるより一瞬早く正面受付から内線電話が入った。

「あ、はい、高岡です」

「精神保健福祉係長の高岡様ですね?正面案内にN新聞の記者で立花様がいらっしゃってます。お約束はないそうですが…」

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