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お仕置き(7)
令和05年11月13日
同じ頃、誰もいなくなった『あすなろ作業所』の事務室に残った小島直樹と鈴村郁代は、深刻な顔で向き合っていた。
「どうして会議の前に相談してくれなかったんだ」
郁代の発言は小島にとっても不意打ちのようなものだった。
「相談すれば止めたでしょう?」
郁代は確信犯だった。
「私が所長に相談してみると言ったとき、先輩は止めませんでした。本来なら前沢さんを通すべきですが、前沢さんに止められたんでは会議で発言はできなくなる。だから先輩は黙認したんでしょ?」
図星だった。前沢幹夫は社会福祉士だが、法人が市から事業を移管された年に、他の事業所からサービス管理責任者として引き抜かれた。支援員たちの協力が欠かせない立場であるために、寺脇や岸谷と歩調を合わせているうちに、それが日常になって、今ではストッキングも体罰も見て見ぬふりをしている。事前に相談したところで、職員間に波風が立つような問題提起は、言葉巧みに避けるに違いない。
前沢の返事は想像がついた。
「自分のいじめ体験を重ねて長年の指導方法を批判するのは公私混同じゃないかなあ。どこの施設にも、いわば家風がある。特に、ここみたいに市から移管された時点で職員が全部入れ替わり、寺脇、岸谷という同じ法人内の経験者が中心になって運営して来た施設の場合、家風は二人の個性がそのまま反映される。私は彼らより三つ年上だけど、他の事業所から引き抜かれた者にとっては、どうしてもアウェイだからねえ。現場を指導管理するサビ管の立場では彼らに頼らざるを得なかった。採用されたばかりの新人としては、まずはここのやり方に慣れることだよ。それには少なくとも三年はかかる。発言はそれからだな」
前沢からこう言われたら、郁代の口は封じられる。
「それも分かった上で問題提起したのか…」
「私…どうしてもあれだけは許せないのです」
と言うよりも、お仕置きストッキングを知らん顔している自分が許せないのだと郁代は言いたかったが、その気持ちは、いじめを経験したことのない小島には理解できないだろう。
「ま、言ってしまったものは仕方がない。しかし、これからが大変だぞ」
小島は自分に言い聞かせるように言った。
「恐らく俺たちに対する寺脇の報復が始まる。郁代はまだ知らないけど、あいつはストッキングどころじゃない、とんでもない暴力を平気で振るえる男だ」
興奮して手に負えない利用者がロッカールームに連れ込まれ、やがて腹部を押さえて出てきたときの苦痛にゆがんだ顔を小島は折に触れて思い出す。おとなしくなった利用者の背後で、巨漢の寺脇が笑っていた。周囲の者は誰も何も言えなかった。見逃すことは認めることだった。それからも同じような場面を何度も目にしたが、物陰で行われる寺脇の暴力は見なかったことにするという暗黙の了解が現場にはできあがっていた。それが、利用者たけでなく、支援員たちまで支配していた。
「ストッキングの次は体罰が待っていると会議で神田さんが言ったのは、そういう意味だったのですね。やっぱり虐待じゃないですか。でも私の意見は所長同席の正式な会議での発言です。現に所長は時間をかけて議論を継続するよう指示されました。職員同士で報復だなんて、所長が許しませんよ」
郁代は郁代なりに考えて行動しているつもりだったが、
「公務員のOBはあてにならない」
小島は吐き捨てるように言って厳しい顔をした。
一時はあこがれたこともある寺脇の支配的な存在感が、敵対したとたんに小島を圧倒していた。利用者もこの圧力を感じて寺脇の指導に従うのだろう。郁代の言う通り、これはあるべき施設の姿ではない。寺脇に対して、言葉を超えた恐れを抱く立場になって、小島はようやく、いじめに怯える中学時代の郁代の気持ちを理解した。お仕置きを含む寺脇体制は何としても正さなくてはならない。
戦えるか?
小島は自問した。
ロッカールームから腹部を押さえて出てくる自分の姿が浮かんだ。背後で寺脇が笑っている。
まさか社会人が働く現場で、暴力による報復なんて起きるはずがないと否定しても、心の深部が怯えていた。
答えの出ない小島の顔を、まだ大学生の匂いの残る鈴村郁代のあどけない瞳が見上げている。