お仕置き(8)

令和05年11月16日

 支援員だけを対象にした今年度最初の懇親会は、七月の職員会議を翌日に控えた木曜日の十八時から開催された。嫌な予感がする…と小島は不安がるが、そもそもサービス管理責任者の前沢真司を含めて、わずか七名の職場である。欠席は目立つ。その上、新人職員の歓迎会を兼ねると案内されては、鈴村郁代も指導者の小島直樹も参加せざるを得なかった。

「ええ…皆さん、今年度初の支援員懇親会を開催しましたところ、全員ご参加いただきまして感謝に耐えません。本日は楽しい宴となりますよう、江口、神田両名とも、幹事として最善を尽くしますので、どうかよろしくお願い申し上げます」

 二人が頭を下げると、料理の並んだ膳の前で正座した支援員たちは拍手して次の言葉を待った。

「パートの皆さんも一緒にという話が従来からございますので、パート職員を代表して、夏樹潤子さんに意見の集約をお願いしたところ、家事や育児の都合でパート勤務を選んでいるのだからという理由で、残念ながら今年度も正規職員だけの会になっております」

 神田由紀が報告した。

「それから、所長さんからご厚志を頂きましたので、お顔を見たときには一言お礼の言葉をお願いします」

 江口は続けて、

「今更ですが、この会は、現場職員の相互理解と結束を目的として支援員だけで懇親を図っています。その辺りの趣旨をご理解の上、アルコールの力を借りて、皆さん本音で意思疎通を図って頂ければ幸いです。ご案内の通り、本会は新人職員の歓迎会を兼ねていますので、まずは新人の鈴村郁代さんから一言ご挨拶を頂いて乾杯に移りたいと思います」

 では鈴村さん、どうぞと促されて郁代はその場で立ち上がった。小島の不安が乗り移ったのだろうか、職員会議であれだけの勇気を振るった郁代の声はかすかに震えていた。

「あの…鈴村郁代です。職員会議では生意気なことを言いましたが、お許しください」

 と言った直後に、しまった…と思った。先月の職員会議でできた職員間の溝を修復するのが目的の懇親会だとしたら、この話題には触れない方がいい。しかし、何事もなかったような挨拶も不自然ではないか…と思い返したとたん、郁代は自分でも思いがけない言葉を続けていた。

「ケアの現場というものは価値観の対立する場でもあるとゼミの教授から教わりました。それを放置せず、新しい価値に統合してゆく力を現場は持つべきだとも先生はおっしゃいました。明日の職員会議で真剣に話し合えたらと思います。ご挨拶にもなりませんが、どうかよろしくお願いします」

 これも採用わずか四か月足らずの新人が懇親会でする挨拶の内容ではなかったが、結局、郁代は、適当な社交辞令でお茶をにごすことのできない、真面目で不器用な性格だった。

 頭を下げる郁代に拍手が起きたが、そのなげやりな手の叩き方には敵意に似た感情がこもっていた。

「価値観の対立って何?」

 神田由紀が不愉快そうに江口の耳元で唇を尖らしたが、江口はことさら雰囲気を変えるように、

「では、お待たせしました!皆さん乾杯の準備をお願いします。発声はひとつ、前沢サビ管にお願いしたいと思います」

 ビールを満たしたコップを目の高さに掲げて、全員がそろうのを待った。

「ご指名ですので乾杯の発声を致します。ま、どこの現場も色々ありますが、鈴村さんの言う通り、その都度話し合って解決してゆく姿勢が大切です。そのためにも、飲んで、食べて、本日は大いに楽しみましょう。それでは、あすなろ作業所支援員の相互理解と結束のために…乾杯!」

「乾杯!」「乾杯!」

 全員で唱和すると、隣り合った席同士の歓談が始まり、やがて座が乱れた。

 幹事としてビールを注いで回っていた神田が、郁代の前に来てビール瓶を差し出した。神田は返杯を重ねて、ほんのりと顔を赤くしている。

「さあ、鈴村さん、飲んで」

 郁代が差し出したコップに神田がなみなみと注いだビールを、郁代は一気に半分ほど飲んだ。

「ところで、鈴村さん、挨拶で言っていた価値観の対立ってどういう意味?私、社会福祉士じゃないから難しいことがよく分からないんだけど」

 神田はそう言って、もっと飲むように左手で促した。

「ああ、あれはゼミの先生の受け売りですよ。例えば旅人の上着を脱がせるのに、力ずくで吹き飛ばそうとする北風と、暖かくして脱がせようとする太陽の話がありますよね。目的は同じでも考え方は全く反対です。現場では利用者の支援方法を巡ってこういうことが起きがちだという意味だと思います」

 郁代はなるべく婉曲に話したつもりでいたが、それが神田の気に障ったのだろうか、

「要するにお仕置きは北風で、利用者のためにならないと言いたいのよね?」

 語気が険悪になった。

「いいえ、いい悪いじゃなくて、考え直すべき時代になったのではないかと…これは個人的にそう思うのです。所長さんもおっしゃったように、支援員みんなで時間をかけて検討することに意義があるのだと思います」

 さあ、飲んで…と、神田はビール瓶を突き出して、

「でも、力ずくでは上着は脱がせられないと言いたいんでしょ?」

「あ、いえ、私の例えが不適切だったかも知れません。つまり価値観の対立というのはですね…」

 と言い終わらないうちにコップのビールが一杯になった。

 郁代は慌ててコップを引いたが、神田は郁代の目を睨みつけたままビール瓶を傾け続けた。膳の料理にビールが勢いよく注がれて激しく泡を立てた。

 郁代は慌てて飛びのいたが、小皿の醤油が飛び散って郁代の白いブラウスに点々と茶色の染みを作った。歓迎会を兼ねると聞いて、郁代にしては奮発して新調したブラウスだった。

「あら、ごめんね、鈴村さん、私、酔ってるみたい」

 神田は我に返ったようにそう言うと、隣の膳のおしぼりを無造作に郁代の膳に乗せた。

「おい、神田、お前、何やってるんだ、ほら!」

 岸谷と江口が周囲のおしぼりを手あたり次第、郁代の膳に放り投げた。郁代の膳はおしぼりで埋まり、ほとんど手つかずの料理は食べられたものではなくなった。

 一刻も早くブラウスを水洗いしようと、郁代は洗面所を目指したが、郁代と同時に立ち上がった岸谷の足が畳の上の空のビール瓶を蹴った。転がって来た瓶につまづいて、郁代は座敷の中央でぶざまに転倒した。

「大丈夫か!」

 小島直樹が駆け寄った。

 大丈夫です、大丈夫です、と言いながら郁代は起き上がって笑った。泣きたいほど惨めで、腹が立っているにもかかわらず、笑顔を作っていた。何度ストッキングを被せられても、黙って笑っていた中学時代が戻ってきた。

「ばか、岸谷、気をつけろ、お前、今、立ち上がるときにビール瓶を蹴ったんだぞ!」

 寺脇がうっすらと笑いながら怒鳴って見せた。

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