お仕置き(9)

令和05年11月20日

 翌日開催された定例の職員会議に臨んだ市川所長は心穏やかではいられなかった。前回は時間をかけて議論を深めて欲しいと締めくくったものの、人は話し合えば溝が深まる存在であることを、長い公務員生活で市川は思い知っていた。たいていの議事は事務局の案の通り決まり、会議は民主的なプロセスを踏んだというアリバイのための退屈な儀式だった。資料は当日配布し、事前に検討する時間的ゆとりを与えなかった。事務局の案に賛意を示す発言者は歓迎され、異を唱える傾向のある者は初めから会議の名簿から外された。メンバーを決める権限が事務局にある場合にはそれができた。ところが本日の職員会議は全員参加である。特定の職員を排除する方法はない。しかも議題は知的障害者に対する指導の在り方である。

 国のガイドラインに従えば、暴力、暴言のたぐいは当然否定されるべきだが、通常の社会にだって叱責もあれば罰もある。ましてや判断能力にも意思疎通にも困難を抱える知的障害者の集団に対し、果たしてどの程度の叱責や罰が適当なのだろう。罰としてストッキングを被せることの妥当性についての議論であると考えると、極めて低次元な印象になるが、わが子に対する親権者の懲戒権同様、これはある意味、普遍的かつ哲学的で、結論の出ないテーマだった。

 いつものように当面の行事予定の説明と利用者の動向についての報告が終わり、

「さて、前回からの懸案である、お仕置きストッキングについて、所長のおっしゃる通り、皆さんそれぞれに、意義や正当性について考えながら一か月を過ごして頂いたことと存じますが、その上で自由にご意見をお聞かせ頂ければと存じます」

 サービス管理責任者の前沢幹夫がメンバーを見回した。

 発言しなければ…と郁代は身構えたが、得体の知れない恐怖に襲われて声が出なかった。料理の膳にビールが注がれて、周囲からおしぼりが飛んで来るシーンがフラッシュバックした。

「あの…よろしいですか?」

 と手を挙げたのは江口俊之だった。

「私、前回の会議で鈴村さんの勇気ある発言を聞いてから、ずっとそのことばかり考えていました。ストッキングのお仕置きは、もう何年も前から続いていることで、当たり前のように思っていましたが、罰として家族に見せられないような恰好を強要するのは、やはり問題ではないかと思い直しました。鈴村さんの言う通り、それは利用者が嫌がっているかどうかとは別の話だと思います」

 思いがけない発言に、市川所長がわずかに身を乗り出し、郁代が驚いたように江口を見た。小島直樹はそんな二人を視界にとらえて息を殺している。思いがけない展開はさらに続いた。

「実は私も…」

 と神田由紀が立ち上がって、

「私たち、これまで経験を頼りに、やみくもに利用者の支援を行って来ましたが、専門的な勉強をしていませんから、やはり人権意識という点で自覚に欠けていたのではないかと反省しています。これからは社会福祉士資格を持つ専門職の皆さんの考えを中心にして支援を行ってはどうかと思います」

 神田の言葉に郁代は感動していたが、小島は警戒していた。

 これは巧妙な宣戦布告ではないのか?

 寺脇と岸谷は黙って腕を組んでいる。

 その沈黙が不気味だった。

「ほかにご意見は?」

 前沢が聞いたが、誰も発言をしなかった。

「よろしいですね?では、本日の職員会議の日程は滞りなく終了致しました。大変有意義だったと思っています。最後に所長から一言お言葉を頂いて解散したいと思います」

 全員が背筋を伸ばした。

 市川は立ち上がって一つ咳払いをし、

「ええ、ただいま、私、大変心を打たれています」

 と切り出した。嘘ではなかった。会議や話し合いというものに懐疑的だった市川としては、古い職員たちの素直な変節はいい意味で想定外だった。

「前回は、私同様、採用間もない新人職員である鈴村さんが、勇気を奮って問題提起をしてくれました。そのときも施設の在り方を真剣に考える姿勢に頭が下がりましたが、正直申し上げて、今回の会議のなりゆきを心配しておりました。人間というものは正しいかどうかとは別に、批判されることに対しては不寛容なものであります。ましてや新しく入ってきた職員からこれまでの指導方法に疑問が投げかけられた訳ですから。恐らく今回の会議は紛糾し、職員間に修復できない溝ができるのではないかと、私はそればかりを心配していたところです。職員間に対立があっては、その影響はきっと悪い形で利用者に及びます。ところが、本日は先輩職員から素直に反省の弁が聞かれました。それどころか専門の勉強をして来た有資格者たちの意見を中心にして施設を運営していくべきではないかと、これは非常に謙虚で建設的な姿勢であります。その姿に私は心打たれたのです」

 市川は一息入れて、

「こういう柔軟な姿勢があれば施設の将来は心配はありません。これからも疑問な点は話し合って、誠実に利用者の支援に当たって頂きたいと思います。本日はお疲れ様でした」

 職員会議は終了した。

 郁代は、そうしなくてはいられない衝動に駆られて、事務室のドア近くに立ち、出ていく職員たち一人一人に頭を下げて見送ったが、小島の口中は砂漠のように乾いていた。

 何かがおかしい…。

 小島が感じている不安を予告するように、岸谷洋一が郁代の両肩に手を置き、顔を覗き込んで大げさな口調で言った。

「頼りにしてますよ、社会福祉士さん」

 その傍らを、ラグビーの選手のような寺脇大輔の巨体が無言で通り過ぎた。

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