お仕置き(10)

令和05年11月24日

 騒動は、翌週の月曜日の朝、パート支援員である魚住美沙の大声から始まった。

「耕平くん、ダメよ、何でそんなことするの、やめなさい!」

 隣の活動室で貼り絵の創作活動に加わっていた鈴村郁代は、

「ここ、お願いしますね」

 パート支援員の遠山亜衣にあとを頼んで作業班に駆けつけた。

 活動室とは言うものの、作業班と創作班の部屋はパーテーションで仕切られただけの、いわばワンフロアだった。

 何が気に障ったのだろう、若原耕平は作業台に積んである割り箸の箱を片端から床にぶちまけている。魚住支援員は興奮する耕平には手が出せず、やめなさい!やめなさい!と声を張り上げている。魚住と一緒に作業班の支援に当たっていた岸谷洋一と江口俊之は、作業台の席に着いたまま動く気配はない。

 魚住の大声に興奮して耕平の動きが激しさを増した。

 こうなると手が付けられなかった。

 耕平がぶちまけている箸の箱は、新藤美晴の作業成果だった。仲間たちが袋に入れた割り箸を集めて、百個ずつ厚紙の箱に詰めるのが新藤美晴の仕事だった。数を数える能力のある美晴は、箸の向きを揃えて、きちんと百個ずつ箱に詰める仕事に誇りを持っていた。箱の数に応じて工賃が支払われる。真剣に取り組めば、月に三千円にはなった。障害基礎年金は両親が管理していたが、工賃は美晴の自由になった。百円ショップで手に入れた首から提げるタイプのスヌーピーの財布に工賃を入れて、買い物の日にスーパーで好きなお菓子を買うのが美晴の何よりの楽しみだった。だから美晴は作業班に長時間好んで加わるのだ。その努力が目の前で台無しになってゆく。

 穏やかな性格で、決して他人を攻撃できない美晴の怒りは自分自身に向かい、突然、頭を激しく作業台に打ち付け始めた。

 ゴン!ゴン!という鈍い音が響く。

 耕平のパニックには慣れていても、自分で自分の頭を打ち付ける美晴の様子に恐怖を感じた作業班の利用者たちは、箸を箸袋に入れる手を止めて固まっている。

 血相を変えて頭を作業台に打ち付ける美晴の額にはうっすらと血が滲んでいる。

「美晴さん、びっくりしたよねえ。箸は先生たちが元通りにするから大丈夫だよ。ね?安心してあっちで少し休もう」

 郁代は美晴の肩を抱くようにしてゆっくりと立たせ、

「手当をお願いします」

 魚住に託すと、散乱する箸を踏まないように気を付けながら笑顔で耕平に近寄った。

「さ、耕平くん、もうやめよう、ほら一緒に箸を拾おう」

 耕平は自分を抱きすくめようとする郁代の腕をするりとかわして、作業台で固まっている利用者たちの頭を平手で叩いて回った。

 叩かれた利用者たちはスイッチが入ったように逃げまどい、パニックは隣の活動室にも波及した。

 貼り絵に取り組んでいたメンバーたちが立ち上がった。

「みんな、自分の席に戻りなさい!」

 遠山支援員が慌てて追いかけたが、制止することはできなかった。

 二つのグループの利用者と支援員が全員で耕平を取り囲む形になると、耕平の興奮は頂点に達し、例によって黒板を爪で引っ掻くような甲高い奇声を上げた。

「わ!」「やめろ!」

 みんな体を丸くして耳をふさいだ。

「岸谷さん!江口さん!のんびり見てないで助けて下さい」

 郁代に促された岸谷も江口も、いつもなら、やめろ、お仕置きだぞ!と怖い顔をして公平に飛びかかるところだが、おもむろに立ち上がると、

「みんな作業に戻ろう」

「はい、貼り絵の班も自分の席に戻る、戻る」

 パン、パンと手を叩きながら、にこやかに声をかけた。そんなことでパニックが収まるはずもないが、二人ともそれ以上のことをするつもりはなさそうだった、

 お手上げだね…と言うように肩をすぼめて見せた岸谷は、

「頼りにしてますよ、社会福祉士さん」

 と郁代の顔を覗き込んだときと同じ目をしていた。

 小島直樹は二階の余暇活動の班にいて騒動を知らないし、こんなとき頼りの寺脇は、珍しく散歩班に同行していて不在だった。そもそも寺脇がいたとしても、これまでの経緯を考えると、安易に頼る訳にはいかなかった。これからは社会福祉士の考えを中心に支援を行ってはどうかという神田由紀の言葉が、郁代に専門職としての覚悟を迫っていた。

「では、みなさん!」

 誰も頼れないと思い定めた郁代の声には、いつもとは違う気迫があった。

「落ち着いてこっちに集まってください」

 郁代の手招きに従って部屋の隅に集まった利用者たちを見渡して、

「しいっ!」

 郁代は大きな動作でくちびるの前に人差し指を立てた。ひとかたまりになった利用者集団の最前列に、自分を含めた五人の支援員を等間隔に立たせて、耕平の暴力から守りながら静観することにした。

 パニック発作は脳が異常興奮することで起きる。周囲で騒ぎ立てるのは本人を刺激して逆効果でしかない。基本的には静かに興奮が収まるのを待つしかないと教わった記憶がある。発作が起きてからの対応には選択肢はないが、どういう条件で発作が起きるのかを知って、未然に防ぐ努力が大切なのだとゼミの教授は言っていた。俗に、癖になるというが、発作は繰り返すほど起き易くなる。未然に防ぐことは将来の発作を減らすことにつながっている。

 案の定、誰も相手をしないでいると、耕平は十分ほどでエネルギーを使い果たして静かになった。発作が収まると、しばらくは放心状態のようになって、どんなに促しても元の作業には戻れない。ぐったりした耕平を自分の席に座らせておいて、

「さあ、みんなで箸を拾おう!」

 郁代の掛け声を合図に、利用者たちは競って床に散らばった箸を拾い集めた。耕平がやったのだから、耕平が片付けるべきだと言う者は一人もいなかった。それどころか、

「誰が一番早く拾うかな?」

 とでも言えば、われ先に拾い集めて得意そうな顔をする。知的障害者たちのそういうところを、郁代はふと羨ましく思うことがある。新藤美晴の自傷行為のように、利用者たちは目の前の出来事に個性に応じた反応をするが、気分が変われば、その感情にいつまでも支配されることはない。小石を投げ込まれた池のように、波紋が収まると元の水面に戻る。

 それに比べて自分はというと、八年以上経っても。中学時代に受けたいじめの首謀者である棚橋瑠美という開業医の娘に対して、今も恨みの牙を剥いている。どちらが幸せなのだろうかと考えることがあるが、そんなときはたいてい自分の心が弱っていた。

 利用者たちが拾い集めた箸を、支援員たちが元通り百本ずつ箱に詰めた。念入りに確かめたが、幸い箸は袋に入っていたし、袋も汚れてはいなかった。

「こっちはもう大丈夫だから」

 岸谷がひどく事務的な口調で郁代に言った。

「それでは、貼り絵を完成させましょう」

 郁代は創作班の利用者たちを伴って本来の隣のフロアに移動した。魚住支援員が額に傷バンドを貼った新藤美晴を連れて戻り、

「お昼まで貼り絵で過ごさせたいと思います」

 声を落として言った。創作班で落ち着かせ、作業班には午後から戻した方がいいという判断だった。

 あと一時間ほどで給食が始まる。

 障害の有無にかかわらず、人は誰でも食事を取れば気分が変わる。

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