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お仕置き(13)
令和05年12月07日
その夜、居酒屋『縄のれん』の四人掛けテーブルで、岸谷洋一と江口俊之と神田由紀が腕時計を見てはイラついていた。
「遅いっすね、寺脇さん」
「家に車を置いてバスで来るとなると、大輔が一番遠いからな」
「先に始めちゃいますか」
「いや、そういうの、あいつ嫌がるから」
「ですよね」
江口は岸谷に対しては従順である。
「それより、見たか?写真」
岸谷が話題を変えた。
「すごいシャッターチャンスですよね、これでしょ?」
江口がスマホのLINEを開けてテーブルの中央に置いた。
一枚目は、郁代の料理の上に神田が勢いよくビールを注ぐ写真に『洪水注意』というタイトルがついていて、『神田の自然な演技は主演女優賞だ』というメッセージが入っている。二枚目は、点々と茶色の染みの飛んだ白いブラウス姿の郁代が座敷の真ん中で両足を広げて仰向けになっている写真に、『御開帳』というタイトルがついていて、『ビール瓶を蹴る岸谷のタイミングは絶妙だったな』というメッセージが入っている。郁代の足元にはビール瓶も写っていた。
「確かに瓶を蹴る岸谷さんのタイミングも抜群でしたが、こっそり写真を撮った寺脇さんの腕も大したもんですよ。でもこれ、スカートだったらヤバかったですね」
「本人は撮られたことを知らないんだから、スカートの方が良かったかもな」
「言えてる!」
「食堂の顔も面白かったよな」
「これでしょ?めっちゃ笑っちゃいましたよ。超、酸っぱい梅干を二つ三ついっぺんに口に入れて噛んだときみたいな顔ですよね。『カレーは正しくお召し上がりください』というタイトルが絶妙です。寺脇さんって、こういうセンス、抜群ですよね」
今度は神田由紀がスマホを開いて見せた。
真由美が郁代の首筋にカレーを入れることが事前に分かっていなければ、絶対に撮れない写真だった。
「しかし、よく真由美が指示通り実行しましたね」
「寺脇の言うことは聞くんだ」
「ひょっとして真由美、寺脇さんのこと、好きなんですか?」
「バカ、怖いんだよ。一度、ロッカールームで殴られてるから」
「え?それ、私、知らないです。江口さんは知ってました?」
「ああ、ちょうど小島が来る前の年の春だから、もう四年になるかな…」
「真由美は特別支援学校を卒業してあすなろに来たときは、ここを嫌がってなあ…。目を離すとすぐ出て行っちゃうんだ。あんときは誰も気が付かなくて、道路をうろうろしていた真由美を近所の人が、ここの人じゃないですかって、連れて来てくれたんだ」
「危なかったっすね、交通量多いですから」
「事故でも起きてみろ、所長の首だけじゃ済まないぞ」
「で?」
「お仕置きだよ、いや、相手は女だから、大輔だって手加減したと思うよ。真由美はロッカールームから腹を押さえて泣きながら出て来た。よほど怖かったんだな、それ以来だよ、日課に取り組まないときは大輔がきっと睨むだけで言うことを聞くようになって、今では寺脇の指示には何でも従う、あすなろで一番扱いやすい利用者だ」
「必要なんですよね、そういう力って」
「逃げ出して何かあったりしたら、親だって困るんだからな?ま、指導方法が大っぴらに言えないのがつらいところだけど」
岸谷がそう言ったところで慌ただしく寺脇大輔が入って来た。
何だ、待っててくれたのか、悪い、悪い、と言いながら寺脇がおしぼりを使うのを待って、
「おにいさん!」
神田が店員を呼ぼうとすると、
「ばか、いまどきは、これだよ、これ」
江口がテーブルの隅のタブレットを神田の前にすべらせた。
神田が四人の注文を聞いて入力すると、飲み物も料理も、作り置きかと思うくらい素早くテーブルに並んだ。
「それじゃ、乾杯だ!」
「乾杯!」「乾杯!」
四人とも中ジョッキを一気に空けて、神田が早速お代わりを注文した。
「計画、うまく進んでるなあ、洋一」
大食漢の寺脇は、唐揚げの大きなかたまりを丸ごと口に入れて満足そうに言った。
「ああ、送ってくれた写真見て、こいつら、お前は盗撮の名人だって感心してたぞ」
「盗撮なんて言ってませんよ、シャッターチャンスがすごいって話をしてたんです。こんな決定的瞬間はプロでもなかなか撮れませんよ。しかもスマホのカメラでしょ?」
「写真にハマってかれこれ十年になるからな」
寺脇は写真の腕を褒められると機嫌がいい。
「耕平も計画通りパニックを起こしたんだってな」
「思うようにならない状況さえ作れば、あいつは簡単に発作を起こす。江口の手柄だよ」
岸谷がそう言って串カツを四人の皿に取り分けたところへ新しいジョッキが来た。
「鈴村が泣きそうな顔して助けを求めたけど、おれも江口も知らん顔したら、あいつ、困ってたよな」
「知らん顔はしていませんよ、みんな作業に戻ろうって、一応穏やかに注意はしましたからね」
「助けてって言われたって、おれたち、これまでのようにはできないもんな、きつく叱れば虐待って言われる」
二杯目のビールを半分ほど飲んで、岸谷は赤い顔をして笑っている。
「叩いちゃダメ、怒鳴っちゃダメ、お仕置きしちゃダメ、みんな人権問題だからな。穏やかに注意するしかないさ」
と揶揄しながら、寺脇は自分が直接関与できなかったことが心残りだった。
「寺脇さんに見せたかったっすよ。魚住さんの、やめてやめてという大声に耕平が興奮して、メンバーの頭を叩いて回ったものだから、みんな逃げまどってパニックでした」
「そんなときどうしたんだ?社会福祉士さまはよぉ」
「どうにもならなくて、結局、静観ですよ」
「私も見たかったなあ、その様子」
神田は二杯目のジョッキを空けても顔色一つ変えないで、料理の追加を入力している。
「残念なのは、そのときの写真がないってことだな…」
寺脇は、くちびるの周囲にビールの泡をつけたまま言った。
「岸谷さんも神田さんも散歩班でしたからね」
「お前たち、二人いるんだから、どちらかが撮れよ写真。鈴村が辞めたら想い出のアルバムを作るんだから」
「撮れったって、耕平は例の声を上げるし、美晴は机に額を打ち付けるし、貼り絵のメンバーまで集まって来るしで、写真どころじゃなかったんですよ」
「ま、戦いは始まったばかりだ。チャンスはあるさ」
満足そうに二杯目のジョッキを空けた寺脇に、
「次の作戦はどうします?」
江口が聞くと、
「少しはお前たちも考えろよ」
寺脇が空のジョッキを神田に掲げて、お代わりの催促をした。
「おれ、日本酒にするよ」
「こっちは酎ハイ…な」
飲み物の種類が分かれると、宴はたけなわになる。
グラスや徳利がテーブルに乱立した頃、
「俺、こういうの思いついたんだ」
ロレツの怪しくなった岸谷に、みんな額を寄せた。
二十時を過ぎて。『縄のれん』は若い酔客で満席になっている。