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お仕置き(14)
令和05年12月10日
小島直樹から携帯電話が入ったのは、ちょうど郁代が洗濯機のスイッチを入れたときだった。
「もしもし郁代?今どこにいる?」
「どこって、先輩、アパートですよ」
「…ということは、無事帰ったんだな?よかった。食堂では席が遠くだったから何もできなくて、話を聞こうと思ったときには郁代の自転車がないだろ?あんなことがあったあとだから心配したぞ」
大丈夫か?と聞かれて、郁代は目頭が熱くなったが、
「カレーの汚れは落ちないから、一刻も早く洗濯しようと思って急いで帰ったんですよ。心配して下さって有難うございます。でも私、全然平気ですから」
虚勢を張った。
「なら安心した」
小島は一息ついて、
「それにしてもあいつら、ひどいことをするよなあ…」
と、もはや敵意を隠さず、寺脇たちを呼び捨てにして話し始めた。
「おれ、やっぱり親睦会のビールは神田が故意にやったんだと思うよ。そのあと郁代の足元をねらって岸谷がわざとビール瓶を蹴った。魚住さんによると、耕平のパニックは江口が仕掛けたみたいだし、これも魚住さん情報だけど、真由美と同じ散歩班だった葛西敏明が、カレーを入れろ、カレーを入れろと独り言を繰り返しているそうだ。な?怪しいだろ?それにな、写真は寺脇の趣味…というよりほとんど病気だから、あいつがいつどこにカメラを向けようと誰も気にしないけど、食堂で真由美が席を立つと同時に寺脇も席を立った。食事中にどこへ行くんだろうと思って目で追いかけたら、寺脇のやつ、背中にカレーを入れられて驚く郁代の様子を、食堂の隅からこっそり連写してた。しかし、それって真由美の行動を知ってなきゃできないことだよな?つまり一連の出来事は寺脇の指図なんだよ」
そのことは小島より先に魚住から聞いていたが、いくら寺脇でも、三十代半ばの社会人が、そんな幼稚な報復をするだろうか…と半信半疑でいた。しかし、小島に解説されると、やっぱりそうだったんだという確信に変わってゆく。
洗濯槽の回転する音が急にホラー映画の不気味なベース音のように聞こえて来た。
「こんなこと絶対に許されるべきじゃない。ましてや利用者に指図して職員に嫌がらせをさせるなんて、それは何よりも利用者に対する虐待だぞ。これで終わるはずがない。これは始まりだと思う。おれは何としても寺脇の卑劣なやり方の証拠をつかもうと思ってる。そのためにはこうして電話やメールで郁代と頻繁に連絡を取ることになる。しかし、あいつらに警戒されては困るから、職場では少し郁代と距離を取らなきゃとも思ってるけど…」
大丈夫だよな?と小島は再び聞いた。
「いやだなあ、先輩。私は平気ですってば」
郁代がことさら明るく答えると、
「お前、案外強いんだなあ。見直したよ。しかし寺脇は執拗だから、郁代を退職に追い込むまでは嫌がらせが続くと考えた方がいい。いいか?無理な我慢はするなよ。何でも俺に話せ。いくらでも聞くからな。魚住さんも力になると言ってくれているから、郁代、負けるんじゃないぞ」
「はい。私、絶対に負けません」
気丈にそう答えはしたものの、八月に入ってからの寺脇の執拗さは小島の想像をはるかに超えていた。
まずは、郁代が帰ろうとすると靴がなかった。どこを探しても見つからなかった靴は、男性用のトイレの床に、スリッパと一緒に並べられていた。異性用のトイレには入りにくいことを見越した悪戯だろうが、真由美が男性用トイレから出てくる姿を偶然パート支援員の夏樹潤子に目撃されている。
利用者の手洗い介助から戻った郁代は、水筒の水を一口飲んだとたんに驚いて吐き出した。疑いもしないで飲んだ水が得体の知れない味だったときは、人間はこんなにも恐怖を感じるものなのだということを郁代は初めて体験した。洗面所で口をすすぎ、水筒の中身を確かめると、水はわずかに茶色く濁っていた。このときも、小さな魚の形をしたプラスチック製の醤油差しをゴミ箱に捨てる真由美の姿が、パート支援員の遠山亜衣に目撃されている。
雨の日には傘が中庭の繁みの中から見つかった。
帽子は散歩コースにある公園の銅像が被っていた。
どれも決定的な証拠があるわけではなかったが、もう疑わしきは罰せずなどと言ってはいられなかった。
「真由美さん、ちょっといい?」
郁代は散歩から戻った菅原真由美の手を引いて相談室のテーブルで向かい合った。
「背中にカレーを入れたり、靴を男性用トイレに隠したり、水筒に醤油を入れたり…まだあります。傘を繁みに隠したり、帽子を銅像に被せたり…。真由美さん、これって、みんなあなたがやったんでしょ?」
真由美は体をこわばらせて返事をしない。
「怒らないから正直に答えてね。私、真由美さんが自分でそんなことするとは思っていないわ。だって、今までこんなことなかったものね。きっと誰かにやれと言われたんだと思ってる。その人だって、いたずらのつもりで命令するんだと思うけど、私はとても嫌な思いをしているの。分かるでしょ?私、あなたに命令している人に会って、やめるようにお願いしようと思うの」
だからその人の名前を教えて欲しいと迫っても反応はない。
「真由美さん、お願いだから誰から言われたのか、正直に話してよ、ね?」
黙ってうつむいたままの真由美の顔を下から覗き込むと、目は落ち着きなく左右に泳いでいる。
その卑屈な様子がたまらなく不愉快だった。
「いい加減にしなさい!なぜ黙ってるの!あなたがやったってことは分かってるの。靴を隠すところも、醤油を入れるところもちゃんと見てた人がいるのよ!」
郁代はそう怒鳴りつけたい衝動を喉元で止めて、じっと真由美の顔を見つめ続けた。すると、たまらなくなった真由美は涙ぐんで、やがてテーブルに大粒の涙がこぼれ落ちた。怒鳴らなくても、郁代の怒りは確実に真由美に伝わっているのだ。罪の意識に駆られて泣いているのだろうか?それとも命令した人物に対する恐れの涙だろうか?いずれにしても利用者を問い詰めて泣かせてしまったのは郁代だった。この場合、郁代も真由美も被害者同士なのだった。
「あ、ごめん、ごめんね、真由美さん。もういいわ、もういいの。つらい思いをさせてごめんね。泣かなくていいからね」
我に返った郁代はやさしく真由美の肩を抱いて相談室を出た。
結局、真由美の声は一言も聞かれなかったが、真由美を泣かせてしまった後悔は、苦いかたまりになって、みぞおちから胸にせり上がって来た。泣かせたのは自分ではなく、真由美に嫌がらせをさせている人物だと思うけれど、泣くほど追い詰められた真由美の気持ちを思うと、郁代はやりきれなかった。
その日以来、郁代は眠れなくなった。
そんな郁代を笑うように、真由美を使った嫌がらせは続き、郁代は靴も水筒も傘も帽子もロッカーに収納して鍵をかけざるを得なくなった。鍵をかける度に、郁代は自分の心にも鍵をかけているような暗い気持ちになった。