お仕置き(15)

令和05年12月13日

 やがて前田道彦という若い利用者が、郁代が一人でいるときを狙って、いきなり胸をわしづかみにするようになった。正面からなら防ぎようもあるが、後ろから、あるいは出会いがしらに、突然襲われると避けようもなかった。

「郁代、お前、そんなとき、どうしてるんだ?」

 携帯電話から聞こえてくる小島の声は明らかに怒っている。

「どうするって、もちろん、人が嫌がることをしてはだめだって言い聞かせてはいるんですが、道彦くん、なかなか聞いてくれなくて…」

「ばか、道彦だって寺脇にやらされてるに決まってる。現に郁代以外の職員には手を出さない。今度やられたら横っ面をひっぱたいてでも、きつく叱るんだ」

「それは…」

「郁代、きちんと叱るのは虐待じゃないんだぞ!」

 そんな目に遭っても道彦に笑顔で対応する郁代の様子は、現場を度々目撃した遠山支援員から聞いて小島は知っていた。

「悪いことは悪いときちんと教える。嫌なことは嫌だと全力で伝える。職員だって人間なんだ。自分の感情を正直に道彦に表現することは必要だぞ。道彦はそういう経験を積んで、他人の嫌がる行為はしないという社会性を身に着けるんだ。そうだろう?」

「…」

「なぜ黙ってる」

「だって…」

「だって?」

「だって、そんなことをさせられているだけで道彦くんは虐待の被害者なんでしょう?先輩が教えてくれたんですよ、真由美さんは寺脇さんから虐待を受けてるんだって。その上、私からきつく叱られたら、道彦くん、居場所がなくなっちゃうじゃないですか?」

「…」

 小島は言葉を失った。郁代は大学を卒業したての社会福祉士だが、筋金入りの支援員だった。確かに郁代の言う通り、怖い職員に命令されて郁代の胸に障ったら、触られた郁代からきつく叱られたのでは道彦はここへ来られなくなる。しかし、どんなに怖い職員に命令されても、やってはいけないことがあることは教えるべきではないかと小島は支援員としてそう思うが、自分が道彦だったら寺脇に逆らえるかと問い直したとたんに、ロッカー室から腹部を押さえて出てくる自分の姿が浮かんで戦慄が走った。

 小島直樹はまた一つ郁代に教えられた。福祉の世界で知的障害者の人権を守る仕事に携わっているつもりでいたが、現実社会は、結局、力に支配されているのかも知れない。

 小島は昨年参加した県主催の研修会を思い出した。『利用者の人権を守る施設ケア』というテーマの基調講演のあと、会場から質問が出た。

「あの、私、特別養護老人ホームの職員ですが、特定の認知症の利用者から暴力を受けたり暴言を吐かれたりして困っています。つまり、職員が利用者から虐待を受けているのです。職員にだって人権があります。先生は職員の人権についてはどうお考えでしょうか?」

 すると講師は迷うことなく即座にこう答えた。

「暴力や暴言は認知症に起因する利用者の問題行動と考えるべきでしょう。問題行動の改善を図るのは職員の職務であって、それを職員に対する虐待行為と捉えることは適当ではありませんね。例えば授乳中の乳児が母親の乳首を噛むことがありますが、乳児から虐待を受けたと思う母親はいません。幼児がだだをこねて母親を叩くことがありますが、被害を訴える母親はいません。しかし母親が子どもに暴力を振るえば虐待なのです。私は職員の人権問題は利用者の言動ではなく、労働環境に着目すべきだと思います。ケアに対応する人員配置になっているでしょうか。手当もなく残業を強いられてはいないでしょうか。休日の行事への参加をボランティア扱いで強制されてはいないでしょうか。きちんと年休は取れているでしょうか。上司、あるいは同僚によるパワハラが横行していないでしょうか。職員の不満や、ストレスや、ゆとりのなさは、不適切なケアとなって結局は利用者に不利益をもたらします。管理者は常に職場環境の改善に努めなければなりません。同様に職員には不合理な職場環境については、ためらわずに改善を求める勇気が必要です。職員からの発言がないと、現場の現実は管理者には認識できないものですからね。相性の合わない利用者がいても、人的余裕があれば柔軟な配置で顔を合わせない工夫だって可能になります」

 特別養護老人ホームの職員の質問に対する回答だったが、そのまま知的障害者の施設にも当てはまった。真由美や道彦は郁代を虐待しているのではない。知的障害ゆえに、善悪の判断なく、寺脇の命令に従ってしまう問題行動と捉えるべきなのだ。憎むべきは利用者を報復の手段に使う寺脇の行為だった。残念ながら証拠はない。証拠はないが、真由美や道彦の問題行動としてなら改善方法の検討はできる。

「な?ここは率直に明後日の職員会議の議題にしてみてはどうだろう。真由美と道彦の行為が利用者の問題行動として所長同席の会議で改善の対象になれば、寺脇だって動きにくくなる」

 だろ?と聞かれても、郁代は返事ができなかった。

 真由美と道彦のことを議題に上げようとすれば、直接の被害者である郁代が発言しなければならない。しかし、現在直面している一連の出来事は、六月の職員会議での郁代の発言から始まっている。今では会議で発言することそのものが郁代にとってトラウマのようになっていた。発言すれば、さらに厄介なことになるかも知れない。寺脇の報復がもっとエスカレートするかも知れない。連日の不安と憤りと睡眠不足に蝕まれた郁代の思考は暗い方向に流れて行く。ひょっとすると、いつだって自分は安全圏にいて、郁代を寺脇排斥の矢面に立たせようとする小島直樹のことは信頼してもいいのだろうか。

「あいつらに警戒されては困るから、職場では郁代と距離を取ろうと思う…」

 何気なく聞き流した、あのときの小島の言葉が、狡猾な匂いをまとって蘇る。

 いや、小島先輩はそんな人じゃない。学生時代、子ども食堂で、あっという間に子どもたちの心をつかみ、一番熱心に勉強を教える小島の姿に憧れたのは郁代だけではなかった。

 しかしビール事件のときも、耕平のパニックときも、真由美のカレーのときも、道彦の痴漢事件のときも、靴や傘や帽子が紛失したときも、小島は事後に親切な電話をしてくるだけで、職場では何もしてくれないではないか。それなのに明後日の職員会議で再び郁代に発言しろと言う。

 返事ができない郁代の耳元で、もしもし…もしもし…という小島の声が続いている。

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