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お仕置き(16)
令和05年12月17日
小島の期待に反し、八月の定例職員会議では郁代は発言をしなかった。いや、正確に言えば、発言ができなかったと言うべきだろう。八月に入ってからずっと断続的に菅原真由美と前田道彦による悪質な嫌がらせが続いている。二人は被害者なのだと自分に言い聞かせても、背後にいる敵の姿が見えないだけに、ともすると二人を憎んでしまう感情が郁代を苦しめた。目は落ち着きがなく、メモを取る手が小刻みに震え、誰かが少しでも大きな声を出すと、ビクッと背筋を小さく痙攣させて驚いた。いつもと違う郁代の様子に気が付いた司会の前沢幹夫が、
「大丈夫ですか?鈴村さん、体調が悪そうですが…」
と心配そうに尋ねると、
「いえ、問題ありません」
郁代ははっきりと答えてみせた。そういうところがお前のいけないところだと、いつだったか小島に指摘されたことがあるが、郁代はどんなときも人に弱い自分を見せられなかった。中学生時代のいじめのときと同様、追い詰められれば、られるほど、助けてくれとは言えなくなってしまう。そして出口のない感情は内側に向かって、郁代の心をじわじわと蝕んでゆく。
「それでは、少し先の行事になりますが、議題は秋のあすなろフェスタの計画に移ります」
従来は夏祭りとして、八月のお盆を外した日程で、法人の役員や地域の住民を招いて利用者を楽しませる、規模の大きなイベントを開催していたが、熱中症で気分が悪くなった住民が二年続けて出てからは猛暑を避け、十月のスポーツの日に、名称も、あすなろフェスタと一新して実施することになっている。あすなろ作業所の職員による音楽や劇などの出し物と、利用者の創作作品の展示、ボランティアによる模擬店や、地域の自治会役員たちによるバザーなどで日中を過ごす催しは、それなりに準備と統率を必要とした。その実行委員長と副委員長を、
「順番通り行けば、今年度は岸谷主任支援員と鈴村支援員のお二人にお願いすることになりますがいかがでしょうか?」
前沢が言った。
郁代にとっては青天の霹靂だった。
「そんな大役、一度もイベントを経験したことのない新人の私に務まるとは思えません。どなたか別の人をお願いします」
郁代の声は震えていた。
とんでもないことが起きようとしている。
「いえ、鈴村さん、実はすべての職員にフェスタの運営を覚えて頂くために、従来から、ベテラン職員には持ち回りで実行委員長を、副委員長は最も新しい職員にお引き受け頂くことになっています」
という前沢の説明に郁代は疑いを抱いたが、
「私は就職した年に岸谷さんと一緒に副委員長をやりました」
と勤続六年の神田が発言した。そうなると、
「私も江口さんに指導して頂いて新人の頃に経験しました」
勤続三年の小島も正直に答えざるを得ず、郁代は拒否する理由を失った。八年の間に職員の出入りがあったとしても、ベテランの職員が新人と組むというルールの存在は事実のようだった。
「では、岸谷さんと鈴村さんにお願いするということで、皆さん、よろしいですね?」
所長も、事務長も手を叩いて承認した。
「ええ…まだフェスタ当日までにはひと月以上ありますが、ひと月ほどしかないとも言えます。来てくださる皆さんに日程を調整して頂かなくてはなりませんから、まずは対外的にご招待やご案内を差し上げる人たちへの文書の発送を急いでいただく必要があるでしょう。あとは昨年の例を参考に、事務長と予算の相談をしながら、実行委員お二人に、工夫を凝らした全体像をプログラムの形で作成して頂きます。必要な都度、われわれに役割を振って頂けば、職員はみな協力を惜しみません」
では実行委員のお二人から一言ずつ抱負をお聞かせ頂きましょうと促されて、岸谷と郁代が今月の行事予定を書いた大きなホワイトボードの前へ出ると、拍手が起きた。
「運営が市から法人に移って八年目ですが、八年通して勤務している寺脇さん、私、江口さんの三人が、その順番で委員長を回していますので、私は今回で三回目の実行委員長ということになります。そういう意味では勝手は分かっているつもりですが、同時に、マンネリ化も感じています。ここはひとつ新人の鈴村さんに大胆に新しいアイデアを出して頂いて、ご参加下さる皆さんを驚かすような企画を立案したいと思います。鈴村さん、期待していますよ。皆さんもどうかよろしくご協力ください」
岸谷の挨拶に不自然なところはなかったが、度重なる嫌がらせを受けて心を病んでいる郁代の耳は、新しいアイデアを出せという岸谷の言葉に陰湿な悪意を感じてしまう。
「鈴村です。まさか採用半年足らずの私にこのような役が与えられるとは思いもしませんでしたので、正直言って戸惑っています。しかし岸谷さんがご挨拶の中で勝手は分かっているとおっしゃっていたので、大船に乗ったつもりでご指導に従いたいと思います。これまでフェスタを見たことのない私に、新しいアイデアを出せと言われましても困ってしまいますので、こうしたらどうだというお考えがあれば、どうぞ遠慮なくご提案ください」
全員で素晴らしいフェスタを実現させましょうと結んだ郁代の挨拶を歓迎する拍手の中を二人は席に戻った。
「では、他に議題はありますでしょうか?」
小島は郁代に発言を促す目くばせをしたが、郁代は気づかないふりをしてじっと俯いていた。
「特に話し合うべき議題もないようですので、最後に所長のお言葉を頂いて終了したいと存じます」
市川所長は立ち上がり、
「ええ…今回も有意義な職員会議になりました。特にあすなろフェスタですか?私も初めて経験しますので、大変楽しみにしています。いつも申し上げますが、施設で行われることは、全て利用者のしあわせが目的です。フェスタで一人でも多くの利用者が笑顔になること、参加して下さるご家族や関係者の皆様が喜んでくださること、そして職員の気持ちが一つになること、そんなフェスタになるよう、実行委員のお二人を中心に、どうか一致団結、協力して準備して頂きたいと思います。あすなろのフェスタを皮切りに、あとの三施設のイベントが続くと聞いております。ひとつ、お手本になるような素晴らしい催しになることを期待しています」
そう挨拶を結んだが、郁代に課された新しいアイデアを出すという課題が、思いがけない形で郁代を苦しめることになる。