お仕置き(18)

令和05年12月26日

 パンクした自転車は重かった。自分の悪運を引いて歩いているような惨めな気分に襲われたが、

『よくお化け屋敷なんて思いついたな、これならフェスタの内容がガラリと変わる。見事だよ!』

 途中で、陽気なスタンプ付きの小島のLINEが届いた。

『有難うございます。先輩の明るいLINEに自転車のパンクのショックが吹き飛びました』

 郁代も負けないくらい陽気なスタンプを付けて返信した。

 ようやくアパートにたどり着いて自転車を点検したが、暗がりではパンクした場所もよく分らなかった。

「家では仕事のことは忘れるんだぞ。仕事と私生活とは切り離すんだ。それから、考えてもしょうがないことは考えないようにしろ」

 気にしない、気にしない。小島の言葉を思い出して気分を切り替えた郁代は、張り切って激辛ラーメンを作ったが、三分の一ほど食べたところでトイレに駆け込んで激しく吐いた。

 原因は思い当たった。

 パンクした自転車を引いてアパートに向かいながら、岸谷の仕業かも知れないと何度も思った。自転車置き場の暗がりにしゃがんで郁代のタイヤに傷をつけている岸谷を想像すると、叫びだしたくなるような怒り襲われたが、郁代はその都度否定した。二人はこれから協力してフェスタを成功させなければならない仲間ではないか。その実行委員長が副実行委員長の自転車を故意にパンクさせたりするだろうか。しかし郁代は今日昼休みに近くのコンビニまで激辛ラーメンを買いに行った。そのときにはパンクしてはいなかった…ということは郁代の直前に帰った岸谷が…。

 郁代は岸谷を疑ってしまう自分を持て余した。気丈に振舞ってはいるが、郁代の心はこれまでの一連の出来事に深く傷ついていた。意識の底に封じ込めている不安と恐怖と嫌悪を吐き出すように郁代は激辛ラーメンを嘔吐したのだった。

 眠れないまま一夜を過ごした郁代は、自転車が使えないため、いつもより三十分早く家を出てバスで出勤し、

「あの、これ…」

 フェスタの企画を岸谷に提出した。

 立っているのがようやくの郁代が血の気のない顔で差し出す企画書を受け取ってざっと目を通し、

「う~む…お化け屋敷というのは確かに新しいが、段ボールで迷路を作るのがちょっと大変かもな。今日帰りに職員に諮って、合意が得られたら必要な物品を具体的に書き出して予算を立てよう。忙しくなるぞ」

 岸谷は予想に反して反対はしなかった。しかし、利用者を送り出した時間に事務室に職員を集めて提案してみると、反対は思いがけない論理で郁代に突き付けられた。

「委員長、鈴村さんは確か、利用者にストッキングを被せて写真を撮ることは専門的見地から虐待だと言っていたんじゃなかったかなあ…」

 寺脇は大きな声でそれだけ言うと、腕を組んで郁代を睨みつけた。すると寺脇の発言に忖度した意見ばかりが続出した。

「私、化け物に扮して写真を撮られるのにはストッキング以上に抵抗があります」

 神田が言った。しかし神田の性格から言って、コスプレや変装が嫌いだとは到底思えない。

「フェスタだからって、やりたくない者に多数決で化け物メイクを強制したら、職員に対する虐待、あるいはパワハラになるんじゃないですか?」

 江口が同調した。

 寺脇に逆らえる者が一人もいない以上、この案が多数決で決まることは絶対にない。

「お化け屋敷は迷路の中を通る人が恐怖を楽しむ催しですが、主たる参加者は知的障害者です。中には、ご存じのように、感情が高ぶるとパニックになる者もいます。鈴村さんの案はその辺りの配慮が今一つ欠けているのかも知れませんね」

 前沢サビ管の意見だけは傾聴に値する内容だったが、恐怖が不都合なら、化け物を漫画に出てくるような人気のキャラクターにしたり、会場を明るくするなどの改良の余地はあるはずだった。

 他にご意見は?と岸谷が聞くと、みんな示し合わせたように小島を見た。発言していないのは小島だけだったし、小島が郁代の側の人間なのかどうかを確かめる絶好の機会でもあった。

 あらかじめ郁代から相談を受けていたとは言えない小島は、

「この案を聞いたときは、これまでとはガラリと違う斬新なアイデアだとは思いましたが、皆さんのご意見を伺って、確かに実施するには問題があると今は感じています。鈴村さんの案をベースにもう少しくふうして…」

 と続ける小島の発言を遮って、

「ええ…皆さん貴重なご意見を有難うございました」

 寺脇と目くばせをするような表情で岸谷が締めくくった。

「実は、今朝、出勤するなり鈴村さんからこの案を見せられました。昨夜一晩で鈴村さんが作成した思いつきのような案だったのですが、社会福祉士が提案するのだから、専門的見地に基づいたものだろうと迂闊にも信頼してしまいました。十分吟味する時間もなく仕事が始まりましたので、大変至らない案を検討して頂く結果となりましたことを委員長として恥ずかしく思っています。本人も十分反省していることと存じます」

 そうだな、と念を押され、

「申し訳ありません」

 郁代は下げた頭から血液がすうっと足元へ逆流するような感覚に襲われた。

 蒼白な顔で立ち尽くす郁代を残して会議は終了した。

「新しい企画は今週中だ」

 岸谷はそう言うと、

「今度は社会福祉士に恥じない案を頼むぞ」

 と付け加えて帰って行った。

「後で電話する」

 小島からLINEが入ったが、郁代は返信をする気にならなかった。アパートに戻ったらパンクした自転車を修理に出さなければならないが、郁代にはその気力もなかった。九月に入ったというのに涼しくなる気配はない。

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