お仕置き(19)

令和05年12月30日

 その晩、小島が何度電話をしても郁代は出なかった。LINEを送ったが既読にならなかった。アパートを訪ねようかとも考えたが思いとどまった。訪問を歓迎するのなら電話に出るに違いない。郁代のことだ、明日はきっとフェスタの新しいアイデアを持って出勤するだろう…小島は冷蔵庫から缶ビールを取り出した。最初の一口をごくごくと喉に流し込んだあと、ひょっとして郁代から返信が入ってはいないかとLINEを開いたら、『あとで電話する』という小島のLINEの前に郁代からの最後のメッセージが表示されていた。

『先輩の明るいLINEに自転車のパンクのショックが吹き飛びました』

 あのときはフェスタの話題に夢中で読み飛ばしてしまったが、郁代の自転車はパンクしていたのだ…ということは、郁代はパンクした自転車を引いて、一人、夜道をアパートに向かっていたことになる。そして、その翌日に郁代は、支援員全員の前で、フェスタのアイデアはおろか、社会福祉士の専門性までもこっぴどく否定されたのだ。落胆は想像を絶している。今夜一晩くらいは電話にも出ず、LINEも読まず、心を閉ざしたとしても責められない。それにしても、舗装道路を通勤しているだけの日常で、所定の駐輪場に置いた自転車がおいそれとパンクなんかするものだろうか…という疑問が浮かんだとたん、小島は不気味な胸騒ぎに襲われた。あの日、郁代は岸谷と二人で残業をしていた。岸谷は郁代より先に職場を出た。まさか岸谷が?いや、いくら何でもそんなことは…。しかし、これまでの郁代に対する嫌がらせを考えると、それくらいのことはやり兼ねない。小島は忌まわしい想像を払拭するように、リモコンを操作してとびきり明るい南米の音楽を聴きながら残りのビールを飲み干したが、胸騒ぎは募るばかりだった。

 小島の胸騒ぎは、翌朝、郁代の欠勤という形で現実になった。

 職場には連絡もなかった。

「無断欠勤は困るなあ…」

 止むを得ないから作業班の穴は私が埋めますよ…と前沢は勤務のやりくりばかりを気にしているが、寺脇も、岸谷も、江口も、神田も、不吉な二文字を思い浮かべて慄然としていた。まさか人間がそんなに簡単に命を絶つとは思えない。しかし、これまで郁代にして来た様々な嫌がらせを思うと、万が一ということも考えられる。ひょっとして遺書でも残されていたら…四人の想像は悪い方に膨らんでゆく。

「小島くん、どうなんですか?鈴村さんは」

 君は親しくしているんだろう?と岸谷に尋ねられて、

「いえ、何も聞いていませんが…」

 小島が答えたとき、職場の電話が鳴った。

「はい、あすなろ作業所ですが…」

 ああ、鈴村さん?という前沢の声に職員全員が耳をそばたてた。寺脇以下四人の顔には明らかに安堵の色が見えた。

「どうしましたか?え?体調が?はい…はい…そうですか、嘔吐したんですか。熱は?それは幸いです。とにかく様子を見て、改善しなければ受診してください。みんな心配しています。大事にしてくださいね」

「申し訳ありません…」

 気力を振り絞って欠勤の連絡を済ませた郁代は、電話を切ったとたんにまたしても吐いた。昨夜、激辛ラーメンを吐いてから、これで四度目の嘔吐だった。胃には吐くべき内容物はもうなかったが、それでも便器に覆いかぶさるようにして苦しむと、口から糸を引いて粘り落ちる胃液よりも、頬を伝う涙の方が多かった。食欲はない。睡眠は全く不足していたが、ベッドに横になって目を閉じても、脳が興奮していて眠れなかった。

 こんなとき一人暮らしは心細かった。スマホに母親の携帯番号を表示させたが、表示を見るだけで心臓が別の生き物のように脈打ち始めた。母親に訴えれば父親の運転で二人は今日のうちに長野から駆けつけてくれるだろう。両親に会いたい…。

 人権だ、福祉だ、虐待だ、組織だと、常に目くじらを立てている社会に住んでいると、赤くて甘くて形のいいリンゴを作ることだけに人生をかけた両親が無性に懐かしかった。台風からリンゴを守ろうと必死になるときの両親の顔には、悲壮感はあっても迷いはなかった。パニックに陥った知的障害者の扱いに苦労するときの支援員の顔とは本質的に違っていた。しかし体調が悪いからといって両親に電話をしてどうなるというのだ。心配をかけるだけではないか。

 郁代はスマホを閉じた。閉じたとたんに子どものように泣いた。困ったときに人を頼れない性格は、中学時代と少しも変わってはいなかった。

 午前十時を過ぎると吐き気はようやく収まった。収まったのに、出勤どころか、コンビニに行く気力も、テレビをつける気力も、着替えをする気力もなかった。一晩かかって吐いたのはなけなしの気力だったような気さえする。

 パジャマ姿の郁代は、歯も磨かず、顔も洗わず、抜け殻のようにベッドに腰を下ろしていた。時が止まっていた。何を考えようとしても思考は具体性を帯びず、なぜか自転車のパンクのことばかりがしきりと浮かんで来た。修理に出さなければ困ると思うのだが、遠い世界の出来事のようで、行動とは無縁だった。気が付くと正午を過ぎていた。症状が改善しなければ受診しろと前沢は言ったが、自分の症状は改善したのだろうか…と思っているところに小島から着信があった。時計を見ると、十二時四十分だった。

「もしもし、吐いたって聞いたけど大丈夫なのか?昨日はおれの電話にも出ず、LINEも読まないで、突然、今朝の欠勤だろう?びっくりしたぞ」

「…」

「もしもし、聴いてる?」

 小島の耳元で郁代が泣いている気配がする。

「いいか?郁代、仕事のことは思いつめるな。フェスタなんて何とかなる。最悪でも去年と同じ内容にすればいい。とにかく自分の責任感に押しつぶされるんじゃないぞ。誰だって自分をかけがえのない存在だと思いたいし、そうに違いないけれど、おれがいなくても、郁代がいなくても社会は回って行く。人間、いつもどこかで、自分をその他大勢の側の一人だと思ってないと簡単に孤立するんだからな」

 とにかく、帰りにアパートに寄るから…と、それだけ言って電話を切った。郁代は恐らく張りつめていた心の糸が切れたのに違いない。無理もない。親睦会のビール事件から始まってフェスタの企画が否定されるまでに郁代に降りかかった嫌がらせの数々を思うと、正常な精神を保っていることの方が難しい。しかし、郁代が電話に出たことは救いだった。まだ完全に心を閉ざしてはいない。小島はパンクした自転車をクルマで修理屋に運んでやろうと考えていた。九月も五日が過ぎるというのに相変わらず真夏日が続いていた。

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