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お仕置き(20)
令和06年01月02日
翌日も郁代は出勤ができなかった。
昨晩、訪ねて来た小島は、玄関先で郁代の症状の経緯を聞いてこう言った。
「それは大変だったなあ。激辛ラーメンなんか食うからだぞ。ま、嘔吐は収まったみたいだし、熱もないなら、とりあえず安心だけど、寝てないんだろ?とても仕事ができる顔じゃない」
わざと明るい口調で話しているような気がした。
小島が来ると聞いて、一応は髪をとき、化粧をして、着替えてはいたが、顔色の悪さと元気のなさは隠しようもない。
「しばらく休め、休め、考えてみたら、これは体をめるチャンスだぞ。まるっきり嘘で休むのは気が引けるから、診断書があった方がいい。今の様子なら、症状を言えば一週間ぐらいの診断書は出る」
と小島は言った。確かにフェスタの副委員長を命じられて忙しい時期に、理由もなく連続して有給休暇を取るのは理屈が通らない。しかしこの体調では休むしかなかった。
「駅前のこもれびクリニックを受診したらどうだ?内科も心療内科もある。評判のいい女医先生だぞ」
小島はさりげなく受診を勧めると、
「自転車の鍵を貸せ」
明日、行きがけに修理に出してやるよ、と、パンクした自転車を車のトランクに乗せて帰って行った。嬉しかった。少しでも小島を疑った自分が恥ずかしかった。信頼してもいい人なのだ。その信頼する人が勧めてくれた、評判のいい女医という言葉が郁代の耳に残っていた。とても仕事に行く気力はなかったが、休む以上はそれなりの手続きが要る。それに、昨夜の激しい嘔吐よりだいぶ前から続いている食欲不振と、不眠と、理由の分からない動悸と、発汗と、何よりも、著しい気力の減退が気になっていた。一度受診しておけば安心だとは思う。思いながら内心では、受診すれば心療内科扱いになり、社会人として深刻な事態に陥ってしまうような嫌な予感がした。
社会福祉士の受験科目にも医学概論はある。精神保健福祉士ではないものの、精神的な疾病についても一通りは学んでいた。郁代が置かれているストレス状況を考えれば、食欲不振、不眠、動悸、発汗、嘔吐、無気力は、まぎれもなくうつ病の典型症状ではないか。いきなり精神科は敷居が高いから、小島は心療内科のあるこもれびクリニックを勧めたのだ。
郁代が感じた嫌な予感の原因は、大学時代に、失恋をきっかけにうつ病になったゼミの友人だった。最初は適応障害とか不安障害という周辺病名がついて学校に来られなくなったが、やがて本格的なうつ病の治療が始まると、学校を休むことそのものが治療になった。アパートに見舞に行くと、彼女は病名が付いたことを喜んでいた。
「私さあ、こんな弱い人間じゃなかったはずだと思っていたら、やっぱり病気だったのよね。みんなうつ病を三大精神病の一つとして恐れるけれど、先生によると心の風邪なんだってね。だからこじらせると悪化する可能性がある。でも早く発見してきちんと治療すれば心配ないみたい。薬を飲んでひたすら心を休める。早く元の生活に戻らなきゃと頑張るのが一番悪いの。だから郁代、絶対に私を励まさないでね」
そう言って前向きに治療に専念していたが、結局、彼女の治療は長期に亘り、大学を中退した。今は立ち直って岡山の実家で果樹園を手伝っている。その彼女が電話でこう述懐した。
「体がいつもだるくて眠いんだけどね、それが症状なのか薬の副作用なのかが判然としないのよ。でもね、クリニックでお大事に…と、いたわられるのか何とも居心地良くてね、次の受診の予約を取るのが当たり前になって、気が付くと治療期間は半年も経ってた。そうなると、これで治った…と区切りをつけるタイミングが先生にも患者の私にも分からないのよね。どうですか?調子は…と聞かれれば、思い当たる症状を大袈裟に言っちゃうしね。朝が起きにくいとか、夜、何度か目が覚めるとか、将来のこと考えると不安になるとか…。そんなの誰にでもあることよね。でも、うつ病患者にとっては全部が立派な症状なの。それで出席日数が足りなくなって退学…」
ただ、今振り返ると、うつ病は自分にとって必要な病気だったような気がすると彼女は言った。
「ブランドの服やバッグを買うためにせっせとバイトをして、いつも自分以上の人間のように振舞って、違う男の人とお酒を飲んだことが何度もあるくせに、他の女性と映画を観た彼のことがどうしても許せなくて…。何やってたんだろうと今は思うわ。青い空の下でブドウや梨や桃の世話をする仕事は私に向いてると思う。うつ病にならないで、あのまま大学を卒業していたら、薄っぺらくて鼻持ちならない人間だったような気がするの」
それは良かったわね、と答えたが、郁代としては友人に戻って来て欲しかった。そもそも人間は、所属する集団から逸脱する期間が長ければ長いほど元の集団には戻れなくなる。中学時代、耐え難いいじめを受けながらも、心を閉ざして登校し続けたから乗り越えられた。郁代の心は、今、職場を休んではいけないと思う理性と、出勤する気力の湧かない感情に引き裂かれそうだった。
とにかく職場に向かう気力がない以上、診断書は必要だった。それに駅前のクリニックなら、小島が修理に出してくれた自転車に乗って帰れる。郁代は職場に電話して、体調が戻らないので本日も休む旨と、受診して診断書を郵送することを前沢に伝えた。