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お仕置き(22)
令和06年01月06日
サービス管理責任者である前沢幹夫からの報告を受けて、市川正義所長は思いがけない反応をした。
「そうですか…ところで君の言う職場内での嫌がらせというものが実際に存在し、それが鈴村さんの不安障害の原因だという証拠でもあるのですか?」
「いえ、証拠などというものは特に…」
「だったら憶測でものを言わない方がいいと思いますよ」
市川は釘を刺すようにそう言った。そんな噂が広がれば所長の管理責任が問われかねない。何でも穏やかに穏便に済ました方が結局は誰も傷つかない。万一複数の人間が傷つくような事態になった場合には、人数の少ない方を犠牲にすべきなのだ。
「しかし、一日も早く職場復帰してもらわなければ困ります。そのためには、職員一同鈴村さんが戻って来るのを待っているというメッセージを本人に届ける必要があるのではないかと思うのです」
「それはどうでしょう。既に主治医がいて、治療が始まっているのですから、余計なことをすると治療の妨げになる恐れがあります。だいたい心の病気は励ましてはいけない、職場復帰を促してはいけないというのが原則ですからね」
「…」
「ま、様子を見て、報告だけは欠かさないようにしてください」
…ということは、所長は、励まさず職場復帰を促しもせず、ただ報告を聴くだけで事態が好転するとでも思っているのだろうか…。鈴村の復職のために、職場もできるだけの努力はしたという実績を残そうとは思わないのだろうか。前沢は半ば失望して所長室を出た。この所長を頼っていては何も解決しない。そもそも所長は現場の人ではなく、五年間、所長室の席を温めて去って行くだけの元公務員なのである。しかし、現場を預かるサービス管理責任者にとって、職場で起きている事態は危機的状況と言わなければならない。懇親会で鈴村の料理にビールを注ぎ続けた神田由紀の姿が目に浮かんだ。その料理に寺脇と岸谷が手あたり次第おしぼりを投げて台無しにした様子も目に焼き付いている。ブラウスについた醤油の染みを落とそうと洗面所に向かう鈴村の足元に岸谷がビール瓶を転がして転倒させたときは、気の毒で目を背けてしまった。その一部始終を寺脇が写真に撮って仲間で共有していることを前沢は彼らの様子でそれとなく知っていた。
「これからずっと周囲に迷惑をかけながら給料もらって休み続けるってのはどうなんだろうねえ…」
寺脇はそう言った。
「自主的に辞めてもらうことはできないでしょうか?」
神田はそう言った。
卑劣なやつらだと前沢は思った。今となっては、お仕置きが虐待に当たるかどうかということは問題ではなかった。それよりも、自分たちが無資格者であるという劣等意識が社会福祉士に対する敵意に燃料を供給しているのだろうと思った。その論理で言えば、たまたま最も立場の弱い鈴村郁代がターゲットになっているだけで、敵意は社会福祉士資格を持つ前沢にも小島にも向いていることになる。
寺脇、岸谷、江口、神田…。自分がその仲間に加わっていないことが前沢としては救いだった。鈴村に対する嫌がらせの証拠を突き付けて、彼らこそ糾弾されるべきだと思っているところへ、相談があるので帰りに時間を取って欲しいという内容のメールが小島から来た。
「前沢さんは、確か防犯管理者でしたよね?」
小島の話は唐突だった。
「一応、講習を受けて管理者ってことにはなってるけど、何か?」
「実は…」
小島は声を落として、七日前、郁代の自転車がパンクしていたときの状況を話した。
「…という訳で、私が翌朝、自転車屋へ車で運んで修理を依頼したのですが、気難しそうなおやじさんがタイヤを調べて、誰かが故意にやったパンクだな、とつぶやいたんです。分かるんですね、破損の形状で…」
「まさか、岸谷ってことか?」
前沢も同じ想像をしたようだ。
「私もそう直観しましたが証拠がありません。しかし、そこまでやるとしたら、これはもう嫌がらせの域を超えて犯罪ですからね。誰か目撃した可能性はないかと思って何度か駐輪場へ足を運んでみましたが、ふと反対側を見ると、駐輪場をカバーする位置に防犯カメラがあるんですよ」
「ああ!あるある、そう言えばあそこに一台カメラがある。なるほど、それで防犯責任者か…」
公道の防犯カメラの映像は、個人情報保護の関係で警察からの要請がないと開示が難しいが、福祉施設のカメラは一般家庭と同様の扱いである。しかも契約先の『令和建物』という小さな建物管理会社は、掃除やエレベーター点検の関係で事務長共々担当者とは懇意にしている。防犯責任者である前沢が依頼すれば、映像を見ることもコピーすることも難しくはないだろう。前沢は早速『令和建物』の担当者に電話して、見たい映像の日時を告げた。
「あ、これは前沢さん、お世話になってます。もちろんご本人だということは声で分かりますが、念のため一旦電話を切って、こちらからあすなろ作業所にお電話しますので…」
と慎重な仕事ぶりをアピールする担当者に、
「いいですよ、今から直接、私がそちらに参りますから、準備しておいてください」
前沢は行動的だった。
そして、用意された映像は衝撃的だった。
日時が右下に表示された画面に、カッターナイフを右手にうずくまって、鈴村の自転車の後輪を傷つけている岸谷洋一の姿がくっきりと映っていた。ここまで明らかになると、立場上態度を不明確にしていた前沢も覚悟を決めるしかない。