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お仕置き(23)
令和06年01月10日
日曜日の午後、小島と前沢は、防犯カメラの映像のコピーを持って郁代のアパートを訪れた。前日のうちに電話で来訪の了解をとってあったので、チャイムを鳴らすとTシャツにジーンズ姿の郁代がドアを開けて二人を迎え入れたが、わずかな期間にかなり痩せたように見えた。
「鈴村さん、体調はどうですか?」
前沢の手前、改まった言葉遣いをする小島に、
「やめてくださいよ、先輩、いつものように名前で呼んでくださった方が自然に話せます」
郁代は笑って見せたが目に力がない。薬の力で何とか眠れるようにはなったものの、復職するまでにはまだしばらく時間がかかりそうだ。
「見せたいものがあるんだが、パソコンを借りてもいいか?」
郁代が立ち上げたパソコンを操作して前沢が防犯カメラの映像を見せると郁代の表情が変わった。
「もう一度、見せてください」
画面を凝視する郁代のこぶしが震えている。
「動かしようのない証拠だよ」
悔しいのだろう。郁代はくちびるを真一文字に結んでいる。
「この映像の扱いについて三人で話し合おうと思ってな」
前沢の言葉に、郁代は共時性ということを思った。
実は昨日の診察でこもれびクリニックのソーシャルワーカーである望月兼輔から具体的に指示されたのが、職場の様子を知らせてくれる仲間を作ることと、仲間の協力を得て、いじめの証拠を集めることという二点だった。
「診察の録音、聴きました。随分ひどいことが起きているみたいですが、鈴村さん、よく耐えていましたね」
相談室で望月にそう言われると郁代は涙が出そうになった。
「新藤先生は、成長の早い時期から鈴村さんが意識下へ追いやっている、最も直面したくない感情を行動で乗り越えると言ってましたよね?」
「はい。私は意識下に何を抱えているのでしょう?」
「それは意識下ですから誰にも分かりませんよ。特に本人には絶対に分かりません」
だから行動で乗り越えるのだと望月は言った。意識下の感情は分からないままでいいのだと言う。
「通常うつ病の治療は、薬の力も借りながら心身を休め、回復を待ちます。環境に馴染めなければ環境の方を調整します。植物を育てるように、水を遣り、肥料を与え、必要なら土を替え、鉢を替え、適度に日光に当て、温度を管理して、とにかくしっかりと根を張るのを待つのですが、鈴村さんのようにいじめの対象になって心が折れてしまったような場合には、それでは本当の改善は望めません。だから中学のときのトラウマを引きずって、またしても今回、同じような目に遭っているのです。いじめに立ち向かう行動を起こさない限り…つまり、感情よりも意思を鍛えない限り、何度でも同じことを繰り返すことになります。勝ち負けは別にして、敵と闘うという行動と同時進行で、意識下の感情は鈴村さんを苦しめなくなるというのが、新藤先生の実践的方法論なのです」
戦えますか?と聞かれて返事ができないでいると、戦術は私が考えますと望月は言った。そして、
「まずは職場に仲間を作っていじめの証拠を集めましょう」
と言った。
その仲間と証拠が、期せずして郁代のもとへやって来たことになる。
「これで岸谷は終わるな…」
前沢は二人に言った。
「だけど、肝心の寺脇は無傷で残りますよね」
小島はそれが我慢できない。まさか岸谷だって、子供じゃないんだから、寺脇の指図でやりましたとは言えない。
そこでだ…と前沢が言った。
「この映像は岸谷にこっそりと見せようと思う」
「え?」「え?」
小島と郁代が同時に驚きの声を上げた。
「日時もはっきりしてるし、自転車屋のおやじさんの証言もある。この映像を被害届と一緒に警察に持ち込めばどうなるか分かるだろ?と言えば、岸谷だってばかじゃない。真っ青になる」
そして前沢は小島を岸谷に見立てて、芝居っ気たっぷりにこう言った。
「心配するな。背後に寺脇がいることは分かっている。お前も江口も神田も、寺脇が怖くて言われた通りに従ってるだけだ。そうだろう?この映像は外には出さない。その代わり、これまでに寺脇から送られた嫌がらせ関連のLINEの写真を全部おれに転送しろ」
前沢は険しい表情を作って小島の顔を覗き込んだ。
「ちょっと、前沢さん、刑事みたいで怖いですよ」
「岸谷はもっと怖いはずだよ」
「寺脇に相談するんじゃないですか?二人は同期ですから」
「相談したら寺脇はどうするかな?」
「LINEを全部削除させるでしょう」
「そうすると岸谷は?」
「そうか、この映像がある以上、岸谷だけが処分の対象になりますから、怯えるでしょうね」
「状況はおおむね所長も知ってる。寺脇が首謀者である証拠としてLINEの写真を見せれば、所長は穏やかな人だから、理由はうやむやにしたままで寺脇だけを別の施設に異動させるだろう。そうすれば犠牲者は出ない。もちろん駐輪場の映像は所長には見せない。寺脇がいなくなれば実質お前が現場のトップってことになる」
「え?所長はご存じなんですか?」
「いや、岸谷には知ってると思わせた方がいいだろうと思ってな」
「前沢さん、犯罪小説が書けますよ」
小島は前沢の知らない一面を見たような気がする。郁代にとっては小島に加えて心強い仲間の登場だった。
「有難うございます。今度の受診時には仲間と証拠が整ったと望月さんに伝えます」
しかし、所長の力で寺脇だけを穏やかに異動させるのだとしたら、郁代にはどんな行動を求められるのだろう。
玄関先で二人の乗った車が遠ざかるのを見送りながら、郁代は事態が具体的に転がり始めたのを感じていた。