お仕置き(25)

令和06年01月15日

 その日、岸谷はスマホを手に悩ましい夜を過ごしていた。これまで寺脇から送られて来た、たくさんの鈴村郁代の写真を、前沢に送るかどうかを明日までに決めなくてはならない。送らなければ郁代の自転車をパンクさせる映像が被害届と一緒に警察に持ち込まれる。そうなれば岸谷は事情聴取を受けて、犯行の動機を供述しなければならない。まさか三十五歳の社会人が、一緒に働く、それも採用わずか半年の女性職員に嫌がらせをしましたとでも言うのだろうか。利用者にストッキングを被せる行為を虐待だと非難された腹いせにパンクさせましたとでも言うのだろうか。国家資格を持っていて生意気だから、困らせて辞職に追い込むつもりでしたなどと答えるのだろうか。そんな小学生みたいな供述が警察官の手によって調書にされる場面を想像すると、岸谷はこの世から消えてしまいたくなるほど恥ずかしい。しかしそれ以外に動機は思いつかなかった。そもそも他人の自転車をパンクさせる理由など恨みか嫌がらせぐらいしかないではないか。答えは初めから分かっていた。さっさと写真を前沢に送る。そうすれば前沢はこれを所長に見せる。所長はことを荒立てたくない人だから、恐らく理由を曖昧にしたまま寺脇を法人内の別の施設に異動させ、岸谷の件は不問に付される。これなら誰も傷つかない。

 岸谷は意を決して写真を前沢に転送した。

 取り返しのつかない決断をするときのように、脇に汗をかき、口中が乾いていた。その割には人差し指一本動かすだけで転送は終了した。そのあっけなさが岸谷が振るった勇気とは不釣り合いだった。転送したのは写真だったが、寺脇も一緒に飛んで行ったような不思議な感覚に襲われた。とたんにふっと岸谷の心が軽くなり、寺脇が遠い存在になった。スマホの画面には後ろから胸をわしづかみにされて驚く鈴村の写真が写っていたが、恐怖に怯える鈴村の表情に、岸谷は自分を支配していた本当の動機を読み取っていた。写真には決して写らないが、必ずその場にいて被写体を覗いている寺脇の目…。普通なら躊躇するはずの行為を平然とやってのける容赦のなさが寺脇にはある。岸谷は寺脇のその容赦のなさを恐れていた。寺脇に媚びて積極的に仲間になることで恐怖から目を逸らしていたというのが本当の理由だと思う。そう思い当たると岸谷は、寺脇に対する恐怖の原点というべき出来事を思い出した。

 八年前、岸谷と寺脇は法人が運営する知的障害者の入所施設に勤務していた。入所施設には夜勤がある。ある日、青山秀治という名の四十歳近い入所者が、深夜に大声を出しながら居室から飛び出した。岸谷がなだめてもすかしても効果はなく、何人かの入所者が目を覚まして騒ぎ始めたとき、隣のフロアで夜勤をしていた寺脇が駆け付けて一瞬で静かにさせた。寺脇の足元で利用者は腹部を押さえ、うつ伏せになって吐いた。それが女子棟で夜勤をしていた女性支援員の口から洩れて問題になった。本来なら事実を確認した上で処分の対象であるが、ちょうどその時期にあすなろ作業所が市から法人に移管されて、経験者を二名異動させる話が上層部の間で持ち上がっていた。施設長は職員による虐待事件として監督責任を問われるのを恐れ、事実確認もせず、内々に本部とかけあって、一人で対応が困難だった岸谷と、暴力を振るった寺脇をあすなろ作業所に異動させた。同期の二人は六年の入所施設での経験を買われて異動するという名目だった。現場の職員たちはみんな本当の理由を知っていたが内部告発はなかった。

 それ以来、岸谷は寺脇に頭が上がらない。自分の力不足が寺脇にあんな事件を起こさせたという意味での負い目はもちろんあったが、それよりも、目の前で入所者を一瞬で殴り倒した寺脇の破壊力とためらいのなさが生理的に恐ろしかった。岸谷同様、江口も神田も目を背けてはいるが、同じ恐怖に支配されて寺脇に従っているに違いない。しかし、それは決して社会人の態度ではない。

 岸谷は前沢から突き付けられた駐輪場の映像で、初めて自分の姿を客観的に見る機会を得た。カッターナイフを片手に駐輪場にしゃがんでいる姿は醜悪だった。家族にも友人にも決して見せられない姿だった。寺脇がいなくなれば、この恐怖からも卑屈な生き方からも解放される。写真を前沢に送った今となっては、気持ちを切り替えて所長の穏便な対応に期待するしかない。

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