お仕置き(26)

令和06年01月17日

 郁代は火曜日にクリニックに電話をしたが、望月は水曜日には時間が取れず、一日置いた木曜日の午後四時に何とか予約ができた。前沢からは月曜日遅くに郁代のスマホにタイトルまで付いた嫌がらせの写真群が転送されて来た。

 神田が郁代の料理にビールをかけている写真には『洪水注意』というタイトルがついていて、『神田の自然な演技は主演女優賞だ』とコメントが添えられている。さらに料理がたくさんのおしぼりで覆われた写真が続いていた。宴席の畳で転倒して大の字になった郁代の写真には『御開帳』というタイトルが付けられていて、これには『ビール瓶を蹴る岸谷のタイミングは絶妙だったな』とコメントが添えられていた。背中にカレーを入れられた瞬間の写真は、『カレーは正しくお召し上がりください』、靴を探す郁代の写真は『私の靴はどこ?』、醤油混入水筒事件の写真は『お味はどう?』といった調子である。

 一つ一つの写真を見ると、郁代が味わった怒りと惨めさと悔しさがまざまざと蘇る一方で、これを共有して笑っている寺脇、岸谷、江口、神田の顔が浮かんで来る。何よりもこっそりこれを撮っている寺脇の存在が不気味だった。被害者と加害者との間には埋めがたい溝がある。加害者がどんなに反省しても、恐らく被害者が受けた傷の深さには絶対に届かない。ここでも郁代は改めて、こんな職員たちに利用者のケアをさせるべきではないと思った。暴力や暴言や理不尽な強制に怯える利用者たちこそ被害者だと思うと、一番の被害者のつもりになって心を病んでいる自分の立場が許せなくなった。小島先輩や前沢サビ管と一緒に、職場から虐待を一掃することが自分に課せられた使命ではないか。郁代は失った気力が再び湧き上がって来るのを感じていた。

 望月はそんな郁代の変化を見通しているのか、

「鈴村さん、こうして行動するのと併行して気力が回復して来ているのがわかるでしょう?」

 郁代が提出した証拠の録音を聴き、写真を見ながらそう言った。確かに意識できない感情は意識しないまま、郁代の心に自分の状況に立ち向かう意思がかすかに息づき始めている。植物が太陽に向かって伸びる分だけ、地中にそれを支えるための根が成長するように、行動とそれを支える気力の回復は同時進行なのだ。新藤先生は郁代に対しては行動できるようになるまで気力の回復を待つという方法を取らないと言っている。

「しかし、随分と幼稚な嫌がらせをするもんですね」

 皆さんは年齢はおいくつですか?と呆れたように望月が言った。寺脇と岸谷は三十五歳、江口は三十四歳、神田は二十八歳だった。確かに年齢を考えると幼稚な行為ばかりだが、明けても暮れても精神年齢の低い知的障害者を相手にする生活支援という仕事の性質が、職員の発想に影響しているのかも知れないと郁代は思った。

「では、治療の一環としての行動計画を立てましょう」

 望月はそう言って、鈴村さんは、職場に復帰したいですか?と聞いた。もちろんですと郁代が答えると、望月はどんな条件が整えば復帰ができますか?と質問を重ねた。これまでそんなふうに考えたことがなかった郁代は即座に答えができなかった。自分の心の弱さを克服することが課題だとばかり思い詰めていたが、職員による嫌がらせの存在が明らかになった以上、自分を受け入れる条件を職場に要求する。それが望月の言う『行動』なのだ。郁代はしばらく考えて、至極当然な二つの条件にたどりついた。まずは二度と嫌がらせをしないと約束すること。そして嫌がらせをした人たちが、きちんと謝罪をすること。この二つが最低条件だった。

「だったら、それを所長さん宛に要求する手紙を書きましょう。前沢さんには鈴村さんの手紙を所長さんに届けてもらいます。恐らく職員会議が開かれますが、前沢さんには所長さんとの会話を、小島さんにはその後の職員会議の様子を録音してもらいましょう。証拠を突き付けて寺脇さんを排除するだけでは職場の改善には繋がりません。鈴村さんの手紙には職場全体で応えてもらいます。あ、ですから、証拠の写真と録音があることは所長さんにはまだ伏せておいてくださいね。それから…」

 望月は準備しておいた新しい診断書を手渡して、

「病名は不安障害からうつ病に変わり、二週間の安静治療は二か月の療養治療に変わっています」

 一緒に乗り越えましょうと言った。

 望月の指示通り、郁代はその晩、所長宛てに手紙を書いて、前沢と小島にアパートに来てくれないかと連絡をした。

 前沢と小島が揃って夜に郁代のアパートを訪ねるのは三度目だった。

『前略

 鈴村郁代です。体調を崩して長期に仕事を休み、大変ご迷惑をおかけしています。以前から利用者による、いたずらの域を超えた執拗な不快行為が続き、不眠が続いていました。激しい嘔吐が改善しても気力が回復せず、こもれびクリニックを受診して不安障害と診断されました。この度、利用者の行為が特定の職員の悪意ある命令に基づく嫌がらせだと確信してお手紙を書きました。いつまでも休職して職場にご迷惑をおかけするのは私の本意ではありません。以下に記す事柄を二つ、実行して頂くことを条件に一日も早い職場復帰を果たしたいと考えています。どうぞご検討ください。お返事をお待ちしています。

一、二度と悪質な嫌がらせをしないこと。

一、これまでの嫌がらせに対して実行した職員がきちんと謝罪すること。

 なお、私が利用者から受けた執拗な不快行為については別紙に箇条書きにてお示ししてあります。

草々

○年○月○日

鈴村郁代


あすなろ作業所

所長 市川正義 様』

「おれはこの手紙を所長に渡してそのときの会話を録音すればいいんだよな?」

 証拠は見せなくていいのか?と前沢は聞いた。

「証拠を突き付けられた所長が、トカゲのしっぽ切りみたいに、寺脇さんだけを無傷で異動させて幕引きにすることを望月さんは恐れているのではないでしょうか。それでは職場と私の改善にはつながらないと考えてるんだと思います」

「なるほど、まずは鈴村の手紙に所長がしっかりと向き合うかどうかを確かめようという訳だ。向き合えば寺脇だけをこっそり異動させて終わりになんかできない。職員会議を開いて手紙を公開し、これまでの反省と、これからの職場の在り方をみんなで考える。できれば寺脇たちが自主的に名乗り出て謝罪する。そして二度と嫌がらせをしないと約束をして初めて職場は改善の一歩を踏み出すことになる」

 望月というソーシャルワーカ―がそこまで考えていることに前沢は驚いていた。職員全体のあるべき姿は、本来、サービス管理責任者である前沢や、全体の統括者である所長が考えるべきことではないか。岸谷としてはトカゲのしっぽ切りを望んでいるだろうし、それを期待して写真を提供したのだろうが、こうなるとそんな期待に沿う訳にはいかない。岸谷には駐輪場のことは表沙汰にしないということは約束したが、所長が穏便に済ますことまでは約束していない。それはあくまでもあの時点での希望的予想に過ぎない。

「よし、会議の録音は任せてください。何だかわくわくするなあ」

 これまで脇役だった二人は、いきなり主役になったような気がして顔を見合わせた。

 郁代は二人の同志にコーヒーを淹れる余裕ができている。

前へ次へ