掲載日 平成16年2月15日 |
幕末の安政六(1859)年から明治三十(1897)年まで、旧南小曾木村 この日記の書かれた幕末は、天候異変、政治的混乱などによって物価が高騰し、庶民の生活は苦しくなって各地で打ち壊しなどがおこり、世情は不安定となっていました。 そのような時代背景のなかで、小布市という「庭場」(五人組が3~4組ほど集まってできた組織)で超こったこと、近隣村、江戸での出来事がこの日記の中に記されています。 特に、暮らしに影響する天候のことはもとより、村仕事・出産・葬式・病気・火事などを、「庭場」でじつによく話し合い(寄り合い)が行われ処理されていたことがうかがえます。 横のつながりが非常に強かったことに驚かされます。 また、庭場で処理しきれない問題は、村単位で解決していたことがわかります。 その一例として、生活困窮者のために庄右衛門などが金を出し、かつ領主の岩槻藩からも四十両を拝借したり、積立金なども加えて配られています。 人々の生活扶助という制度もなかった時代は、なにより庭場単位の相互扶助が大きな役割を果たしていたようです。 市川家日記は、幕末から明治維新にかけての庶民の生活を知る資料として大変貴重であることから、昭和49(1974)年に市の有形文化財に指定されました。 なお、この日記は、個人所有のため、閲覧はできませんが、青梅市史史料集第42号に庭場について、また、第46号には市川家日記の全文と解説があります。 | |
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市文化財保護指導員 小川 秋子 | ||
参考資料 『青梅ゆかりの文化財』より |
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