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  • 更新日 2013年7月24日
  • 青梅市「広報」より
    《第六十二回》ふるさとの文化財

    吉野家文書よしのけぶんしょ
    【東京都指定有形文化財】
    掲載日 平成18年5月15日

    広報おうめ3月15日号の『ふるさとの文化財60』で新町の旧吉野家住宅が紹介されましたが、代々名主を務めた吉野家に伝わる古文書も『青梅新町開村記録(4冊)』が昭和45年に、『旧多摩郡新町村名主吉野家文書(3千866点)』が昭和57年にそれぞれ都有形文化財に指定されています。

    新町村を開村した吉野織部之助は、後北条氏の支城である忍城おしじょう(現埼玉県行田市)の主である成田市に家臣として仕えていましたが、豊臣氏の後北条氏攻略によって忍城を離れ、下師岡(現市内師岡町)の地に移り住み農業を始めました。 その後徳川幕府ができるとすぐに、新田開発を願い出て新町村の開拓に着手しました。 したがって、下師岡の吉野家は息子が継ぎ、新町村の吉野家は孫娘に婿を取って興しました。 ここに下師岡村名主吉野家と新しく新町村吉野家が誕生しました。

    下師岡村吉野家は、近隣の野上村などの名主も享和2年(1802)まで代々兼務するなどしていたため、8千703点という束京都でも群を抜く数の古文書(昭和62年都有形文化財指定)を有しています。 また、新町村吉野家も3千870点という数の古文書を有しています。 これらの古文書の中には、村の概要を記した「村明細帳」や今の戸籍に相当する「宗門人別帳」、公文書である「御廻状」等から個人間の書簡まで実に多種多様にわたっています。 例えば、教育委員会刊行青梅市史資料集第四十号『御殿女中。吉野みちの手紙』(下師岡村吉野家文書)は当時の女性の暮らしぶりを知るうえの貴重な資料となっています。

    両家の文書は『東京都古文書集旧多摩郡新町村名主吉野家文書』および『東京都古文書集旧多摩郡下師岡村名主吉野家文書』として都教育委員会より刊行されています。(原資料は公開されていません)

    市文化財保護指導員
    神森 正
     参考資料
    『青梅ゆかりの文化財』より
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