御嶽菅笠は天保五年(1834)齋藤義彦により製作された、御嶽詣の道中記で、当時の青梅街道の様子などを知る貴重な資料としてその版木が、昭和三十九年に市の有形文化財に指定されました。10枚の版木の裏表に2頁ずつ20面からなり、製本すると40頁になります。
「股引 草履 玉小菅、すげの小笠の波たちて、旅の装束も真吉野の、御嶽のみちの行程は、娘盛りの十六里・・・」
と日本橋より御嶽山までの道中が絵と七五調の文で調子よく記されています。
河野省三(『埼玉史談第八巻第六号』「幕末の神道家齋藤義彦」・昭和十二年刊)によると、齋藤義彦は、秩父郡原谷村大野原(現秩父市)に天明五年(1785)荒船吉兵衛の長男として生まれ、秩父神社の薗田筑前に学び、郷里の南方刀美神社(諏訪神社)の齋藤家に入ります。その後江戸に出て幕府の神道方吉川家に仕え国学を学び、その学頭となり多くの著書や和歌を残し、天保十二年(1841)南埼玉郡豊春村(現春日部市)で57歳にて没しました。墓は秩父郡小鹿野町長留にあり、埼玉県の旧跡に指定されています。また同氏による辻博士の引用文に、
「武州御嶽 幕末に、御師中間に、國學の講習が行はれ、復古思潮はこの山間にも横溢した。御師三十人の内一人二人は、國典を解 釋する者もあつた。天保五年の頃、秩父の齋藤義彦といふ者が来て滞留して居た。その著作「御嶽すげ笠」は当時滞留中に草したもので、御師等は交々此人について敎を受けた。」
とあり、幕末の御嶽に齋藤義彦がもたらした影響は多大で、復古神道の思想を御師等はこぞって学んだようです。そのためか、幕末には山上にあった世尊寺や正覚寺は廃寺となり、今日の御嶽神社の形態もこの頃に確立されたようです。
版木は個人蔵のため見ることはできませんが、製本された御嶽菅笠は御嶽神社にて販売されています。
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