ロボフィッシュ

平成28年08月27日(土)

 ところが何日かすると、生きものを飼いたいという衝動が再びうずき始めました。確かにロボフィッシュはものを言いません。与えられた環境の中で懸命に泳ぎます。しかし、わずかばかりの意思も感情もないのです。私が水槽からつまみ出せば動かなくなるという意味では、いのちは私の手に委ねられていますが、水槽に投じれば再び泳ぎ出すのでは「いのち」とは言えません。電池が切れるのを「死」に見立てたとしても、電池を交換すれば復活するのでは、生きものの「はかなさ」からは断絶しているのです。すると部屋の隅に放置してある半円柱の水槽が目に留まりました。これを使えば本物の魚が飼えるではありませんか。常温で最も飼育し易い淡水魚は何ですかという質問に、ペットショップのお兄ちゃんの答えは明快でした。勧められるまま、赤いメダカと白いメダカを五匹ずつビニール袋に入れてもらいました。お兄ちゃんは親切で、私に水槽の形状を尋ね、

「その程度の大きさの水槽なら、濾過装置からの水を水面より少し高い場所から落とせば、空気を巻き込んで酸素は供給されます。あとは砂と水草だけ用意されたらいいでしょう」

「水草は本物の方がいいですよね?」

「本物に越したことはありませんが、酸素が足りていれば人工のものでも構いません。目的はメダカの隠れ家ですからね」

 棚にずらりと並んだプラスチック製の水草の中から、水槽の底に置くタイプのものと、水面に浮かべるタイプのものを一つずつ選び、白砂と小さな網と、メダカの餌を一緒に買って、自宅に車を走らせる私の心は久しぶりに弾んでいたのです。


 説明書を読みながら水槽に濾過装置をセットし、白砂を敷いた上にカルキ抜きをした水を張って水草を入れると、小さなアクアリウムが完成しました。十匹のメダカは所狭しと水槽内に散って、縦横に泳ぎ始めました。隣りの水槽ではロボフィッシュが泳いでいます。こうして比べてみると、生きものとロボットの違いは歴然でした。電池がある間は尾ひれの力でひたすら一定方向に泳ぎ続けるロボフィッシュの単調さに対して、時に素早く方向を変え、時に仲間を威嚇したりしながら、変化に富んだメダカの泳ぎは飽きることがありません。

「餌はやり過ぎないようにして下さいね」

 食べ残しが水を汚しますからというペットショップのお兄ちゃんの言いつけを守り、ほんの一つまみ、顆粒状の餌を与えるやいなや、匂いを嗅ぎつけたメダカたちは一斉に群がって、水面に散った茶色の餌を小さな口で懸命に吸い込んで行きます。やはり生きものはこうでなくてはいけません。

 哀れな囚われの身であることを意にも介さず、小さないのちが私と同じ瞬間を生きている…。極めて制限された不自由な環境の中で、そのことを不満にも思わず、与えられた運命をひたすら生きている…。そんなメダカたちの姿に対する共感が、癒しの効果をも持つのだとしたら、無性に生きものを飼いたくなる時は、思うようにならない現実に押しつぶされそうな時なのかも知れません。体重は増えたまま一向に戻りません。文庫本は拡大鏡がなくては読めなくなりました。地下鉄の階段は後から来る人にどんどん追い越されます。人間ドックの結果は毎年不健康ばかりを証明します。私の二十年先を行く母親は、老いの行方を見せつけるように衰えて行きます。一年先まで容赦なく埋まって行く予定表を眺めながら、残りの人生をこんなことを繰り返して過ごしてしまっていいのかと焦りを感じる一方で、他に特別したいことも欲しいものも思い当たりません。それやこれやの取りとめのない鬱屈が、無心に生きる水槽の中のいのちたちを眺めていると不思議と穏やかになるのです。