優しいバリア

平成30年05月25日(金)

 私は弱い立場の者を貶める行為を決して容認するものではありませんし、不適切な言葉を不用意に用いることを、おおらかさの範疇に含めて肯定するつもりもありませんが、悪意のない言動の中から人権について配慮に欠けると思われるものを拾い上げ、その場は何事もなかったようにやり過ごしておいて、後ほどそのいちいちを苦情窓口に匿名で訴えるような風潮を好ましいとは思えません。ハラスメントとは一定の権力関係にある者の、強い者から弱い者に対する一方的な不適切行為を言うのですから、その場で反論も抗議もできないのは理解できますが、それが必ずしも権力関係にない一般社会にまで蔓延し始めていることを怖れています。会話をするに際して、相手を傷つけることを過度に意識して言葉を用いなければならない不自由さは、率直にものを言ったり、相手の事情に踏み込むことを妨げるバリアを形成してしまうように思うのです。人の心を傷つけまいとするバリアですから、優しいバリアということになりますが、老人扱いをされた側が傷つくかも知れないことを恐れて、席を譲りましょうかの一言が言えないたぐいの優しさは、トシヨリなんぞ立ってりゃいいんだという傲慢さと、結果的に見分けがつきません。


「ここ、どうぞお座り下さい」

「いや、私、まだ席を譲られるような年齢ではないつもりです」

「これは失礼しました。気を悪くなさらないで下さい。私よりはご年配だと思っただけのことですから…」

「頑なな人間だと思われたでしょうが、どこかで年齢に抵抗していないと、どんどん老け込みそうでしてね」

「なるほど、私もそんなふうに生きて行きたいものです」


「お前、結婚するんだってな、良かったじゃないか。早くおやじさんに孫を見せてやれよ」

「それがな、実は妻は子どもの産めない体なんだよ。あいつの前で不用意なこと言わないように頼むよ」

「そうか、それは気の毒だな、分かった、気を付けるよ」


「今日、バスに障害者が車椅子で乗り込んで来てさあ、そのせいで電車一本乗り遅れちまった。迷惑な話だよ」

「俺の友人も交通事故で脊椎損傷になって車椅子生活してるけど、バスや電車に乗る度に迷惑かけてることをすごく気にしてる。車椅子に乗ってる方もつらいんだろうね」

「そうだったのか、なるほどなあ。みんな好きで車椅子に乗ってる訳じゃないし、俺だっていつ追突されて不自由な体になるか分からない。考えてみりゃ車椅子の当事者の方がつらいに決まってる。相手の立場に立つって実に難しいよな。いゃあ、反省したよ」


「佐藤くん、今日は無礼講だよ。ここへ来てビールぐらい注いでくれたらどうなんだ。女の子はね、愛嬌も笑顔も能力のうちだよ。にこっと笑ってごらん、苦情を訴えるユーザーの気持ちだってほぐれるから」

「課長、それってマズいっすよ。セクハラで訴えられたら一発アウトです」

「何だ係長、佐藤くんが文句を言わないのに、君も硬いこと言うなあ。私は少しでも座を盛り上げようと思ってだなぁ」

「いえ、私はこんなことで課長に失脚して欲しくないんですよ。わが課の損失ですからね」

「あの…私の父も課長と同じようなことを言って職場の宴席でたしなめられていると聞きました。ジェネレーションギャップですね」

「そうか…私は佐藤くんの父親の年代か…。娘だと思うとビールを注げとは言えないな、いや、これは失敬」


 こんなふうにさらりさらりと会話がその場で終わって行く人間関係に憧れを持って書いた私の文章もまた、ジェネレーションギャップを抱えた年寄りの世迷言ということで一笑に伏されるのかも知れません。