雨の高知

平成30年09月14日(金)

 外に出ると、雨は滝のように降っていました。雨樋が蛇口になったかと思うほど勢いよく雨水を吹きだして、歩道はちょっとした川の様相です。傘を差しているにもかかわらず全身濡れネズミになって、私はホテルの部屋でテレビをつけました。気になる天気予報は四国地方に大雨警報が発令中であることを告げ、交通情報は土讃線の運休を知らせていました。


 明日は帰ることができるのでしょうか。列車が止まっているとなると、切符は払戻ししなければなりませんが、同じ目的の客が窓口に列をなして、気の遠くなるような待ち時間を過ごすことにならないでしょうか。それよりも心配なのは列車に代わる交通手段です。来たときと同様、一部一般道を走るにせよ、岡山行きの高速バスは運行しているでしょうか。明日は日曜日です。バスしかないとなると、列車で帰る予定の観光客は全員バスセンターに殺到し、本数に限りのあるバスの座席は確保できないのではないでしょうか。バスも止まっていれば、もう一泊しなければなりませんが、それでは仕事に差し障ります。テレビの交通情報を観ていても埒が明きません。スマホで調べても高速バスの予約ページにうまくたどりつけません。今なら駅もバスセンターもまだ営業時間です。どうせ濡れついでだと思い定めて、私は歩いて駅に向かいました。その頃雨はピークで、十分程度の距離を二十分かかって駅にたどり着いたときには、お気に入りの革靴は水びたしでした。まずはバスセンターに行き、高速バスの予約をしようとすると、明日の道路状況によっては運休になるので、明日一番にお越し下さいという返事です。加えて、たとえバスが運行していても、どれだけの遅れが出るか見当もつかないから、岡山からの新幹線の切符が指定席なら、柔軟に列車を選択できるように自由席に変更した方がいいと助言されました。確かにその通りです。手元の切符はグリーン車なのです。私はその足でJRの窓口に行き、持っている切符をカウンターに並べて事情を説明しました。

「それですと、一旦すべての切符をキャンセルして頂いて、改めて岡山からの自由席をお買い求め頂くことになりますね」

「それで結構ですよ、キャンセルして下さい」

「出発日の前日のキャンセルですから、三十パーセントの手数料がかかりますが…」

「やむを得ないですね」

 と答える私を不憫に思ったのでしょうか、窓口の若者は一瞬ためらって、

「あの…明日、土讃線が不通であることを確認してからキャンセルされれば、手数料なしで、全額払い戻しになりますよ」

 声を落として教えてくれました。

 高知はいい町です。たった一人の駅員さんの親切が町の印象を代表するのですね。反対に、例えばたった一人の市バスの運転手の横柄な態度に、その町が嫌いになってしまうことだってあるのです。その夜は、ハンガーに掛けた衣類と、ティッシュを詰め込んだ革靴にエアコンの風がうまく当たるように工夫して眠りました。

 翌朝は雨を避けてタクシーで駅に行き、相変わらず不通が続いているJRの切符全額の払い戻しと、高速バスの予約を済ませました。十時出発のバスが出たのが十一時…。四時少し前に岡山に着くまでの五時間近くは、これで今日のうちに我が家に帰ることができるという安堵感で満たされていました。バスが運休になれば、もう一泊しなければならないというところまで期待値が下がると、気が遠くなるような移動時間も、とにかく動いていてくれて良かったという感謝の対象になりますね。この辺りに、幸福に人生を送る秘訣があるのかも知れないなどと思いながら高知の旅は終わりました。

 無事名古屋に着いて、いつものバス停で目的の市バスを待ちながら、私は不思議な心の変化を味わっていました。坂本龍馬生誕の地…。何度訪れてもあこがれの高知でしたが、観光スポットを何一つ観ず、激しい雨に降り込められて一泊しただけの経験が、高知に対する心理的距離を劇的に縮めたようです。例えば会う度に別れを惜しんでいた恋人と結婚し、妻になった女性に感じるような距離感の変化でしょうか。例えば値段が高いため、年に一度も利用できない高級料亭の厨房で、皿洗いのアルバイトをした後で感じる店のイメージの変化でしょうか。

 とにかく高知はあこがれよりも親しい町になりました。