心理的二重構造

平成30年10月30日(火)

 この種の会話が言い当てているように、最近では責任回避のための安全基準がどんどん高度になり、その分、本音の基準との乖離が大きくなっているように思います。

 私はここで社会に満ちている不正や不合理を言い募ろうとしている訳ではありません。一家に仏壇と神棚が平然と同居しているように、私たちの精神は本音と建前の二重構造に抵抗を感じない特性を持っているということが言いたいのです。そのことがプラスに働いたりマイナスに働いたりしながら、この国の歴史が作られて来ました。そして今また、国家の根幹に関わる憲法の改正が検討の俎上に上っているのです。

 対外的にはまぎれもなく軍隊である自衛隊を、国内的には軍隊ではないと説明し、国の交戦権は否定すると言っておきながら、自衛のためには武力行使も辞さず、国家の安全が間接的にでも脅かされる恐れがあれば、集団的自衛権も発動できるという、憲法解釈上の二重構造は問題ですが、改正されたあとも、ちょっとした言葉の使い方を巡って、国民が想像だにしない解釈を許してしまう余地が残されていては意味がありません。我々には、セクハラだ、パワハラだ、マタハラだ、障害の「害」や子供の「供」は、ひらがなで書くべきだと、対人関係の領域では神経質なほど気を遣う一方で、原発、国防、移民、巨額な国債残高といった国家運営の根幹に関わるような問題については、明確な意見表明も活発な国民的議論も避け、曖昧に先送りする傾向があります。曖昧にして対立を避けておけば、曖昧であるがゆえに、有事の際には解釈で乗り切れるという無意識の智恵が働いているとすれば、それも民族の持つ心理的二重構造ではないかと思いますが、その性質を憲法改正の国民投票に当たってマイナスに作用させないように、いよいよ具体性を帯びる複数の憲法改正案と国会論議に真摯な関心を寄せなければと思っているところです。