たまご

作成時期不明

 どうしてこんなひどい目に会うんだろう…と、そう思わない患者はいませんでした。白い天井、白い壁、白い床…。医者も看護師も事務員も、ここでは患者以外の全てのものが白い色をして人の心をはねつけています。切り取られた小さな窓からは自由な青空が広がっているのですが、お前たちとは無縁の世界だとでも言うように、そこには黒い鉄格子が立ちはだかっているのです。

「こんな暮らしはもうたくさんだ!」

 新しく入って来た患者たちは、誰でも一度は病院を脱け出す計画を実行に移すのですが、その度にまるで現行犯の犯人のように容赦なく取り押さえられて鍵のかかる小さな病室に閉じこめられ、やがて症状が悪化したという理由で注射される色鮮やかな薬液によって、ものを考える気力さえ奪われてゆくのです。

「人間は間違っています…」

 みんなからマリアというあだ名で呼ばれている、中年の髪の長い患者がつぶやきました。

 すると、

「そう、人間は間違っている」

 イエスというあだ名のついた、マリアよりは少し年上の痩せた無精ひげの患者が難しい顔で大きく何度もうなずきました。それがいつものことなので、看護師たちもまたいつものように、ほんの少しの関心すら示しません。

「あんなにやさしかつた私の父でさえ、車を運転するとまるで別人のようになって道路を横切るお年寄りを平気で怒鳴りつけました。人間は人間以上の速さで走ろうとすれば、人間らしい心を失うのです」

「そう、失ってしまう」

「学生時代の私の友達は、ライバルよりも二度続けて成績が悪かったのを苦にして自殺してしまいました。それをそのライバルは同情するどころか、競争相手が一人減ったと内心喜んでいたのです。人間は協力よりも競争をして暮らすようになった時、人間らしい心を失うのです」

「そう、失ってしまう」

「母は母で隣の家庭と自分の家庭とを比べては、庭が狭いとか日当たりが悪いとか不平ばかりを言って父を困らせていました。人間は他人と比較することでしか自分を確認することができなくなった時、人間らしい心を失うのです」

「そう、失ってしまう」

「会社にはタイムカードがあって、一分の遅刻も許されない代わり、働く仲間たちは一分だって余分に働こうとはしませんでした。今では人間たちは時間と物の奴隷です」

「そう、奴隷です」

「でも私たちは奴隷にはなれませんでした」

「そう、奴隷になれない私たちは病院に入れられた」

「やはり人間は間違っているのです」

「そう、間違っている」

 二人は鉄格子の窓から遠い青空を見つめていつものようにため息をつきました。

 病院には月に一度患者たちが買い物に出かける日があります。職員が目を離したすきにベランダからマリアが飛び降りたのは、ある熱い夏の日のことでした。

 * * * * *

「困ったことをしてくれたもんだ」

 とマリアを担当していた若い医師がカルテを見ながら言いました。

「結局彼女も理想ばかり追いかけて現実に押しつぶされてしまった可哀想な女だったということか…。鈴木あきよ、三十五才。それにしてもこういうタイプの患者はそろってたまごが嫌いというのはいったいどういうわけなんだろう…」